ょいと尻を持立《もった》てる。遁構《にげがまえ》でいるのである。
「お光さんか、年紀《とし》は。」
「知らない。」
「まあ、幾歳《いくつ》だい。」
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、三歳《みッつ》だよ、ははは。」
と笑いながら駈出《かけだ》した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
「二十《はたち》だ……鼬《いたち》だ……べべべべ、べい――」
四
ここに、第九師団|衛戍《えいじゅ》病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園《まんしょうえん》、春日山《かすがやま》などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉《いでゆ》の町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い畷《なわて》になる。桂谷《かつらだに》と言うのへ通ずる街道である。病院の背後を劃《しき》って、蜿々《うねうね》と続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の前《さき》に近いから、遠い山も、嶮《けわ》しい嶺《みね》も遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を刷《は》いたおっとりとした青空で、やや斜《ななめ》な陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
その近山《ちかやま》の裾《すそ》は半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、下《くだ》りめになって、陽の一杯に当る枯草の路《みち》が、ちょろちょろとついて、その径《こみち》と、畷の交叉点《こうさてん》がゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽《みはらし》の野山の中に一つある。一方が広々とした刈田《かりた》との境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた杭《くい》ばかり一本、せめて案山子《かかし》にでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑《のどか》な欠伸《あくび》でも出そうに、その杭に凭《もた》れている。藁《わら》が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり盛《さかん》に植える、杓子菜《しゃくしな》と云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜《れんげな》とも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が暖《あたたか》だから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家《まちや》、農家が入乱れて、樹立《こだち》がくれに、小流《こながれ》を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中|道《みち》で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯《さっ》と射《さ》す。
色も空も一淀《ひとよど》みする、この日溜《ひだま》りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅《べに》の葉が柵《しがら》むように、夥多《おびただ》しく赤蜻蛉《あかとんぼ》が群れていた。――出会ったり、別れたり、上下《うえした》にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも闌《たけなわ》に、恍惚《うっとり》したらしく、夢を※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、漾《ただよ》いつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
日南《ひなた》の虹《にじ》の姫たちである。
風情に見愡《みと》れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞《めぐ》らしつつ彳《たたず》んでいるのであった。
四辺《あたり》の長閑《のど》かさ。しかし静《しずか》な事は――昼飯を済《すま》せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行《あるき》でぶらりと出て、温泉《いでゆ》の廓《くるわ》を一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、媚《なまめ》かしい、紅《べに》がら格子《ごうし》を五六軒見たあとは、細流《せせらぎ》が流れて、薬師山を一方に、呉羽神社《くれはじんじゃ》の大鳥居前を過ぎたあたりから、往来《ゆきか》う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店《さかみせ》の杉葉の下《もと》に、茶と黒と、鞠《まり》の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛《か》んだり、ちょいと鼻づらを引《ひっ》かき合ったり。……これを見ると、羨《うらや》ましいか、桶《おけ》の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗《こいぬ》は出て来ても、村の閑寂間《しじま》か、棒切《ぼうきれ》持った小児《こども》も居ない。
で、ここへ来た時……前途《むこう》山の下から、頬被《ほおかぶ》りした脊の高い草鞋《わらじ》ばきの親仁《おやじ》が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎《いっしょうびん》をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬《ぷん》とさせて、蛇の茣蓙《ござ》と称《とな》うる、裏白の葉を堆《うずたか》く装《も》った大籠《おおかご》を背負《しょ》ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形《つき》も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇《ほこり》を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰《なまず》のような、小鮒《こぶな》のような、頭の大《おおき》な茸《たけ》がびちびち跳ねていそうなのが、温泉《いでゆ》の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
客は、陽《ひなた》の赤蜻蛉に見愡《みと》れた瞳を、ふと、畑際《はたぎわ》の尾花に映すと、蔭の片袖が悚然《ぞっ》とした。一度、しかとしめて拱《こまぬ》いた腕を解《ほど》いて、やや震える手さきを、小鬢《こびん》に密《そっ》と触れると、喟然《きぜん》として面《おもて》を暗うしたのであった。
日南《ひなた》に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛《しらが》が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅《まっか》なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下《もと》に、杭の尖《さき》に留《とま》った。……一度伏せた羽を、衝《つ》と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方《こなた》へ振動かした。
小狗の戯《たわむれ》にも可懐《なつかし》んだ。幼心《おさなごころ》に返ったのである。
教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒《まっくろ》な厚い大《おおき》な外套《がいとう》の、背腰を屁びりに屈《かが》めて、及腰《およびごし》に右の片手を伸《のば》しつつ、密《そっ》と狙《ねら》って寄った。が、どうしてどうして、小児《こども》のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝《なむさんぽう》、赤蜻蛉は颯《さっ》と外《そ》れた。
はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
向うに狗児《いぬころ》の形《かげ》も、早や見えぬ。四辺《あたり》に誰も居ないのを、一息の下《もと》に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟《とっさ》に渋面を造って、身を捻《ね》じるように振向くと……
この三角畑の裾の樹立《こだち》から、広野《ひろの》の中に、もう一条《ひとすじ》、畷《なわて》と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道《あぜみち》があるのが屏風のごとく連《つらな》った、長く、丈《せい》の高い掛稲《かけいね》のずらりと続いたのに蔽《おお》われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈《か》けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟《あわ》の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
と見向いた時、畦の嫁菜を褄《つま》にして、その掛稲の此方《こなた》に、目も遥《はるか》な野原刈田を背にして間《あわい》が離れて確《しか》とは見えぬが、薄藍《うすあい》の浅葱《あさぎ》の襟して、髪の艶《つやや》かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
おや、顔に何かついている?……すべりを扱《しご》いて、思わず撫《な》でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾《つば》と見えたろう。
金切声で、「ほほほほほほ。」
十歩ばかり先に立って、一人男の連《つれ》が居た。縞《しま》がらは分らないが、くすんだ装《なり》で、青磁色の中折帽《なかおれぼう》を前のめりにした小造《こづくり》な、痩《や》せた、形の粘々《ねばねば》とした男であった。これが、その晴やかな大笑《おおわらい》の笑声に驚いたように立留って、廂《ひさし》睨《にら》みに、女を見ている。
何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑《おかし》いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人《としより》にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖《どてら》で出歩行《である》く。勢《いきおい》なのは浴衣一枚、裸体《はだか》も見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の糊《のり》が硬々《こわごわ》と突張《つっぱ》って、広袖の膚《はだ》につかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒《まっくろ》に、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が憑《つ》いたようで、褌《ふんどし》をぶら下げて裸で陸《おか》に立ったより、わかい女には可笑《おか》しかろう……
いや、蜻蛉釣《とんぼつり》だ。
ああ、それだ。
小鬢《こびん》に霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を洩《もら》すと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、堪《たま》らぬといった体《てい》に、裾をぱッぱッと、もとの方《かた》へ、五歩《いつあし》六歩《むあし》駈戻《かけもど》って、捻《ね》じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
胸を反《そら》して、仰向《あおむ》けに、
「あはははは。」
たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭《おじぎ》をする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
やがて、朱鷺色《ときいろ》の手巾《ハンケチ》で口を蔽うて、肩で呼吸《いき》して、向直って、ツンと澄《すま》して横顔で歩行《ある》こうとした。が、何と、自《おのず》から目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
八口《やつくち》を洩《も》る紅《くれない》に、腕の白さのちらめくのを、振って揉《も》んで身悶《みもだえ》する。
きょろんと立った連《つれ》の男が、一歩《ひとあし》返して、圧《おさ》えるごとくに、握拳《にぎりこぶし》をぬっと突出すと、今度はその顔を屈《かが》み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
教授も堪《こら》えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹《ひばら》を腕で圧えたが追着《おッつ》かない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。
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