たので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣《や》ろうかとも思ったが、式《かた》のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙《ひま》に、自分で買って来る方が手取早《てっとりばや》い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被《かぶ》らないで、黙《だんま》りで、ふいと出た。
直き町の角の煙草屋《たばこや》も見たし、絵葉がき屋も覗《のぞ》いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町|行《ゆ》き、一町行き……山の温泉《いでゆ》の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包《うわづつみ》の色も褪《あ》せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫《めぬき》の町の商店でも、経験のある人だから、気短《きみじか》にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚《なまめ》かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢《いきおい》がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動《こなし》は早く褄《つま》を軽く急いだが、裾《すそ》をはらりと、長襦袢《ながじゅばん》の艶《えん》なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向《うつむ》けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄《しお》れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入《べにいり》友染《ゆうぜん》の裏が浅葱《あさぎ》の袖口で、ひったり圧《おさ》えた。
中脊で、もの柔かな女の、房《ふっさ》り結った島田が縺《もつ》れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀《あわれ》で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後《うしろ》むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出《ひきだ》して、立返る頭髪《かみ》も量《おも》そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花《さざんか》に霜の白粉《おしろい》の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、宜《よろ》しい。……」
懐中《ふところ》へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂《たもと》に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片《はなびら》に、日の片あたりが淡くさすように、目が腫《はれ》ぼったく、殊に圧えた方の瞼《まぶた》の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃《ほこり》などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽《あきだる》、漬もの桶《おけ》などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲《たた》くのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖《しあわせ》だ。……」
今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹《おなか》が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱《ひっかか》えた黒塗《くろぬり》の飯櫃《めしびつ》を、客の膝の前へストンと置くと、一歩《ひとあし》すさったままで、突立《つった》って、熟《じっ》と顔を瞰下《みおろ》すから、この時も吃驚《びっくり》した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯《まんま》を食わせようと思うたでね。急《せ》いたわいな、旦那さん。」
と、そのまま跳廻《はねまわ》ったかと思うと。
「北国一だ。」
と投げるように駈《か》け出した。
酒は手酌が習慣《くせ》だと言って、やっと御免を蒙《こうむ》ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静《しずか》に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
と言継いで、
「彼家《あそこ》に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
また大声で、
「押惚《おっぽ》れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚《びっくり》しただろ、あの、別嬪《べっぴん》に。……それだよ、それが小春《こはる》さんだ。この土地の芸妓《げいしゃ》でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活《い》きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持《かんしゃくもち》の、嫉妬《やきもち》やきで、ほうずもねえ逆気性《のぼせしょう》でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺《たにし》さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒《らち》あかねえさ。脚気《かっけ》山中《やまなか》、かさ粟津《あわづ》の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体《からだ》中|掻毟《かきむし》って、目が引釣《ひッつ》り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子《かね》も、店も田地までも打込《ぶちこ》んでね。一時《いっとき》は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
――初女房《ういにょうぼう》、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。摺《す》った揉《も》んだの挙句が、小春さんはまた褄《つま》を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜《よ》がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上《のぼせあが》って、痛痒《いたがゆ》い処を引掻《ひっか》いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈《ふ》んで喰噛《くいかじ》るだよ。血は上ずっても、性《しょう》は陰気で、ちり蓮華《れんげ》の長い顔が蒼《あお》しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々《かッかッ》と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪《かみのけ》さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂《たもと》に包んだ半紙の雫《しずく》は、まさに山茶花《さざんか》の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」
三
「そうか――先刻《さっき》、買ものに寄った時、その芸妓《げいしゃ》は泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立《きだて》の優しいお妓《こ》だから、内証《ないしょ》で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼《ばば》も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日《いちんち》二日《ふつか》は講中《こうじゅう》で出入りがやがやしておるで、その隙《ひま》に密《そっ》と逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
と客は、しめやかに言った。
「厭《いや》な事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗《しつこ》い、嫉妬《しっと》深《ぶか》いのに、口説《くど》かれたらお前はどうする。」
「横びんた撲《は》りこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の巴《ともえ》板額《はんがく》だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……その勢《いきおい》で、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
肩を振って、拗《す》ねたように、
「要らねえよ。――私《うち》こんなもの。……旦那さん。――旅行《たび》さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視《み》て、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切《しんせつ》は難有《ありがた》いが、いま来たばかりのものに、いつ出程《たつ》かは少し酷《ひど》かろう。」
「それでも、先刻《さっき》来た時に、一晩|泊《どまり》だと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中《やまなか》へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
「緩《ゆっく》り居なされば可《い》いに――では、またじきに来なさいよ。」
と、真顔で言った。
客はその言《ことば》に感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
したたか頭《かぶり》を掉《ふ》って、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿《むこ》さんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯《おまんま》を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
「勿体《もったい》ないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替《へんがえ》だ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室《ま》では遣切《やりき》れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証《ないしょ》でどうともするだよ。」
客は赤黒く、口の尖《とが》った、にきびで肥《ふと》った顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「措《お》きなさい、そんな事。」
と耳朶《みみたぼ》まで真赤《まっか》にした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
と、飯櫃《めしびつ》に太い両手を突張《つっぱ》って、ぴ
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