きつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋《なべ》をかけようとする、夜《よ》なしの饂飩屋《うどんや》の前に来た。
 獺橋《かわうそばし》の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
 犬ほどの蜥蜴《とかげ》が、修羅を燃《もや》して、煙のように颯《さっ》と襲った。
「おどれめ。」
 と呻《うめ》くが疾《はや》いか、治兵衛坊主が、その外套の背後《うしろ》から、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
 獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串戯《じょうだん》だと思ったろう。
「北国一だ――」
 と高く叫ぶと、その外套の袖が煽《あお》って、紅《あか》い裾が、はらはらと乱れたのである。

       九

 ――「小春さん、先刻《さっき》の、あの可愛い雛妓《おしゃく》と、盲目《めくら》の爺《とっ》さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆《みんな》で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可《い》い。
 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界《きょうがい》にある夥間《なかま》だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児《こども》を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可《よ》い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可《よ》かろう。あの盲《めし》いた人、あの、いたいけな児《こ》、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違《まちがい》がないとも限らぬ。その後難《こうなん》の憂慮《うれい》のないように、治兵衛の気を萎《なや》し、心を鎮めさせるのに何よりである。
 私は直ぐに立って、山中へ行く。
 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃《ほこり》が立つ。構わないにしても気が散ろう。
 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽《たのし》み、よくお遊び。」――
 あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更《あらた》めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程《た》ったのは、同じ夜《よ》の、実は、八時頃であった。
 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏《おだやか》でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂《たもと》を振切る。……
 
 お光が中くらいな鞄《かばん》を提げて、肩をいからすように、大跨《おおまた》に歩行《ある》いて、電車の出発点まで真直《まっす》ぐに送って来た。
 道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、蚤《のみ》にくわれても、女《あま》ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
 停車|場《じょう》の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭《うなず》いた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品《ひとしな》下んせね。鼻紙でも、手巾《ハンケチ》でも、よ。」
 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
 このおもみに、トンと圧《お》されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯《じょうだん》だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺《ひきず》るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
 発車した。

 ――お光は、夜《よ》の隙《ひま》のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外《おもて》へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾《あつぶすま》、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言《むつごと》のように語り合う、小春と、雛妓《おしゃく》、爺さん、小児《こども》たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
 黒い外套を来た湯女《ゆな》が、総湯の前で、殺された、刺された風説《うわさ》は、山中、片山津、粟津、大聖寺《だいしょうじ》まで、電車で人とと
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