水溜《みずたまり》の池がある。が、涸《か》れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗《のぞ》く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖《あたたか》さに枝垂《しだ》れた黒髪はなお濃《こまや》かで、中にも真中《まんなか》に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見|階子《ばしご》に、袖を掛けた柳の一本《ひともと》は瑠璃天井《るりてんじょう》の階子段に、遊女の凭《もた》れた風情がある。
このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行《あるき》の人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱《あさぎ》に、紺に、茶の旗が、納手拭《おさめてぬぐい》のように立って、湯の中は祭礼《まつり》かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前《のきさき》には、駄菓子|店《みせ》、甘酒の店、飴《あめ》の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女《ゆな》も掛ける。髯《ひげ》が啜《すす》る甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ蟹《がに》の糸である。
みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
人の出入り一盛り。仕出しの提灯《ちょうちん》二つ三つ。紅《あか》いは、おでん、白いは、蕎麦《そば》。横路地を衝《つい》と出て、やや門《かど》とざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり静《しずか》になった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若衆《わかいしゅ》たち、とある横町の土塀の小路《こみち》から、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い装《よそおい》でよぎったが、霜の使者《つかい》が通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂然《せきぜん》としたのであった。
月夜鴉《つきよがらす》が低く飛んで、水を潜《くぐ》るように、柳から柳へ流れた。
「うざくらし、厭《いや》な――お兄《あん》さん……」
芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸《くぐりど》を細目に背にした門口《かどぐち》に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇《たたず》んだ、影のような婦《おんな》がある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟《じっ》とすかして――そう言った。
「お門《かど》が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家《となり》の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着《くッつ》いた。
何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引《ひっ》かぶった若い衆《しゅ》が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々《うろうろ》する。
この時であった。
夜《よ》も既に、十一時すぎ、子《ね》の刻か。――柳を中に真向いなる、門《かど》も鎖《とざ》し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛《とまか》けた大船のごとく静まって、梟《ふくろ》が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷《すべ》ると、帳場が見えて、勝手は明《あかる》い――そこへ、真黒《まっくろ》な外套《がいとう》があらわれた。
背後《うしろ》について、長襦袢《ながじゅばん》するすると、伊達巻《だてまき》ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔《ぼら》と、比目魚《ひらめ》のあるのを、うっかり跨《また》いで、怯《おび》えたような脛《はぎ》白く、莞爾《にっこり》とした女が見える。
「くそったれめ。」
見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細《ほっそ》りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺《ふ》って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗《うろこ》を立てて、逆《さかさま》に尖《とが》って燃えた。
途端に小春の姿はかくれた。
あとの大戸を、金の額ぶちのように背負《しょ》って、揚々として大得意の体《てい》で、紅閨《こうけい》のあとを一散歩、贅《ぜい》を遣《や》る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗《のぞ》き、火の見を仰いで、移香《うつりが》を惜気《おしげ》なく、酔《えい》ざましに、月の景色を見る状《さま》の、その行く処には、返咲《かえりざき》の、桜が咲き、柑子《こうじ》も色づく。……他《よそ》の旅館の庭の前、垣根などをぶらつ
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