せる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎《やきもちやろう》だ。大《でけ》い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲《は》りこくってやろうかね。」
「ああ、静《しずか》に――乱暴をしちゃ不可《いけな》い。」
 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子《とういす》に掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、汝《おどれ》から先に……当前《あたりまえ》じゃい。うむ、放せ、口惜《くやし》いわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓《げいしゃ》を呼んで遊んだが、それがどうした。」
「汝《おどれ》、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳《あいびき》にうせおって、姦通《まおとこ》め。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子《かね》に世の中が行詰《ゆきづま》って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡《つけまと》うのは卑劣じゃあないか。――投出す生命《いのち》に女の連《つれ》を拵《こさ》えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤《のみ》が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷《ねびえ》をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命《いのち》を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足《つぎたし》をしてやるが可《い》い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔《きれい》だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉《とんぼ》釣る形の可笑《おかし》さに、道端へ笑い倒れる妙齢《としごろ》の気の若さ……今もだ……うっかり手水《ちょうず》に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」と呻《うな》った。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺《たにし》の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活《いか》すもあるものか。――静《しずか》にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命《いのち》の養生をするが可《い》い。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「姐《ねえ》さん、放しておやり。」
「危《あぶね》え、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧《おさ》えていない。婦人《おんな》が起《た》ってそこへ縋《すが》れば、話は別だ。桂清水《かつらしみず》とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可《い》い。婦人《おんな》は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
 また電燈が、滅びるように、呼吸《いき》をひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜《くぐ》って、小《ちっ》こい、庭境《にわざかい》の隣家《となり》の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺《ず》って、窓を這《は》って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
 小春は花のいきするように、ただ教授の背後《うしろ》から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。

       八

 ここの湯の廓《くるわ》は柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡《なび》いて、しっとりと、見附《みつけ》を繞《めぐ》って向合う湯宿が、皆この葉越《はごし》に窺《うかが》われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五|間《けん》間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、湯煙《ゆけむり》の薄い胡粉《ごふん》でぼかして、月影に浮いていて、甍《いらか》の露も紫に凝るばかり、中空に冴《さ》えた月ながら、気の暖かさに朧《おぼろ》である。そして裏に立つ山に湧《わ》き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼《あお》い砂子《すなご》を鏤《ちりば》めた景色は、広重《ひろしげ》がピラミッドの夢を描いたようである。
 柳のもとには、二つ三つ用心|水《みず》の、石で亀甲《きっこう》に囲った
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