みさごの鮨
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)旦那《だんな》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)加賀国|山代《やましろ》温泉

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》
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       一

「旦那《だんな》さん、旦那さん。」
 目と鼻の前《さき》に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸《はし》の手をとめた痩形《やせがた》の、年配で――浴衣に貸広袖《かしどてら》を重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
 と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
 客は余り唐突《だしぬけ》なのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠《はたご》でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突《ちょとつ》な質問を受けた事はかつてない。
 ところで決して不味《まず》くはないから、
「ああ、おいしいよ。」
 と言ってまた箸《はし》を付けた。
「そりゃ可《い》い、北国《ほっこく》一だろ。」
 と洒落《しゃれ》でもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
 と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健《じょうぶ》そうで、口許《くちもと》のしまったは可《い》いが、その唇の少し尖《とが》った処が、化損《ばけそこな》った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌《あいきょう》がある。手織縞《ておりじま》のごつごつした布子《ぬのこ》に、よれよれの半襟で、唐縮緬《とうちりめん》の帯を不状《ぶざま》に鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
 これを更《あらた》めて見て客は気がついた。先刻《さっき》も一度その(北国一)を大声で称《とな》えて、裾短《すそみじか》な脛《すね》を太く、臀《しり》を振って、ひょいと踊るように次の室《ま》の入口を隔てた古い金屏風《きんびょうぶ》の陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
 ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野《かのう》の何某《なにがし》在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子《いす》に、楊貴妃《ようきひ》ともたれ合って、笛を吹いている処だから余程《よっぽど》可笑《おか》しい。
 それは次のような場合であった。
 客が、加賀国|山代《やましろ》温泉のこの近江屋《おうみや》へ着いたのは、当日|午《ひる》少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和《やわら》かなちっとも気取《きどり》っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手《もみで》をしながら、御逗留《ごとうりゅう》か、それともちょっと御入浴で、と訊《き》いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈《かが》めつつ畏《かしこま》って、どうぞこれへと、自分で荷物を捌《さば》いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室《ま》が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届《ふゆきとどき》の儀は御容赦下さいまして、まず御緩《ごゆっく》りと……と丁寧に挨拶《あいさつ》をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
 実は小春日《こはるび》の明《あかる》い街道から、衝《つ》と入ったのでは、人顔も容子《ようす》も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯《じゅうたん》の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対《さんぷくつい》も、濃い霧の中に、山が遥《はるか》に、船もあり、朦朧《もうろう》として小さな仙人の影が映《さ》すばかりで、何の景色だか、これは燈《あかり》が点《つ》いても判然《はっきり》分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠《いしどうろう》に、苔《こけ》の真蒼《まっさお》なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯《さっ》と渡る風に静寂な水の響《ひびき》を流す。庭の正面がすぐに切立《きったて》の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿《うね》り蜿り自然の大巌《おおいわ》を削った径《こみち》が通じて、高く梢《こずえ》を上《あが》った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟《かけはし》のように覗《のぞ》かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥《こまどり》の囀《さえず》るような、芸妓《げいしゃ》らしい女の声がしたのであったが――
 入交《いれかわ》って、歯を染めた
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