もに飛んでたちまち響いた。
けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎《は》ねて起きた。
寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが貴方《あなた》の、お身代り。……私はおくれました。」
と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋《すが》った。
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
と突拍子な高調子で、譫言《うわごと》のように言ったが、
「ようこそなあ――こんなものに……面《つら》も、からだも、山猿に火熨斗《ひのし》を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆《みんな》が賞《ほ》めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」
立会った医師が二人まで、目を瞬《しばたた》いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
と、ありなしの縁《えん》に曳かれて、雛妓の小《こ》とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目《めくら》の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀《あみだ》様。おありがたや親鸞《しんらん》様も、おありがたや蓮如《れんにょ》様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」
「そんなものは見とうない。」
と、ツト杖を向うへ刎《は》ねた。
「私は死んでも、旦那さんの傍《そば》に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」
「勿体ないぞ。」
と口のうちで呟《つぶや》いて、爺《おやじ》が、黒い幽霊のように首を伸《のば》して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上《うわ》ねむりに見据えたが、
「うんにゃ、道理《もっとも》じゃ。俺《おら》も阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」
と言うと、持った杖をハタと擲《な》げた。その風采《ふうさい》や、さながら一山《いっさん》の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
[#地から1字上げ]大正十二(一九二三)年一月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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