ざんか》に霜の白粉《おしろい》の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
 うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、宜《よろ》しい。……」
 懐中《ふところ》へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂《たもと》に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片《はなびら》に、日の片あたりが淡くさすように、目が腫《はれ》ぼったく、殊に圧えた方の瞼《まぶた》の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃《ほこり》などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽《あきだる》、漬もの桶《おけ》などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲《たた》くのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
 と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖《しあわせ》だ。……」
 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹《おなか》が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱《ひっかか》えた黒塗《くろぬり》の飯櫃《めしびつ》を、客の膝の前へストンと置くと、一歩《ひとあし》すさったままで、突立《つった》って、熟《じっ》と顔を瞰下《みおろ》すから、この時も吃驚《びっくり》した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
 教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
 と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯《まんま》を食わせようと思うたでね。急《せ》いたわいな、旦那さん。」
 と、そのまま跳廻《はねまわ》ったかと思うと。
「北国一だ。」
 と投げるように駈《か》け出した。
 酒は手酌が習慣《くせ》だと言って、やっと御免を蒙《こうむ》ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静《しずか》に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
 
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
 と言継いで、
「彼家《あそこ》に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
 と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
 また大声で、
「押惚《おっぽ》れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚《びっくり》しただろ、あの、別嬪《べっぴん》に。……それだよ、それが小春《こはる》さんだ。この土地の芸妓《げいしゃ》でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活《い》きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持《かんしゃくもち》の、嫉妬《やきもち》やきで、ほうずもねえ逆気性《のぼせしょう》でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺《たにし》さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒《らち》あかねえさ。脚気《かっけ》山中《やまなか》、かさ粟津《あわづ》の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体《からだ》中|掻毟《かきむし》って、目が引釣《ひッつ》り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子《かね》も、店も田地までも打込《ぶちこ》んでね。一時《いっとき》は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
 ――初女房《ういにょうぼう》、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱
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