えぬしの方で承知しねえだよ。摺《す》った揉《も》んだの挙句が、小春さんはまた褄《つま》を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜《よ》がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上《のぼせあが》って、痛痒《いたがゆ》い処を引掻《ひっか》いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈《ふ》んで喰噛《くいかじ》るだよ。血は上ずっても、性《しょう》は陰気で、ちり蓮華《れんげ》の長い顔が蒼《あお》しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々《かッかッ》と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪《かみのけ》さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
 かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂《たもと》に包んだ半紙の雫《しずく》は、まさに山茶花《さざんか》の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」

       三

「そうか――先刻《さっき》、買ものに寄った時、その芸妓《げいしゃ》は泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立《きだて》の優しいお妓《こ》だから、内証《ないしょ》で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼《ばば》も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日《いちんち》二日《ふつか》は講中《こうじゅう》で出入りがやがやしておるで、その隙《ひま》に密《そっ》と逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
 と客は、しめやかに言った。
「厭《いや》な事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗《しつこ》い、嫉妬《しっと》深《ぶか》いのに、口説《くど》かれたらお前はどうする。」
「横びんた撲《は》りこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の巴《ともえ》板額《はんがく》だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……その勢《いきおい》で、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
 肩を振って、拗《す》ねたように、
「要らねえよ。――私《うち》こんなもの。……旦那さん。――旅行《たび》さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視《み》て、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切《しんせつ》は難有《ありがた》いが、いま来たばかりのものに、いつ出程《たつ》かは少し酷《ひど》かろう。」
「それでも、先刻《さっき》来た時に、一晩|泊《どまり》だと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中《やまなか》へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
「緩《ゆっく》り居なされば可《い》いに――では、またじきに来なさいよ。」
 と、真顔で言った。
 客はその言《ことば》に感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
 したたか頭《かぶり》を掉《ふ》って、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿《むこ》さんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯《おまんま》を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
「勿体《もったい》ないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替《へんがえ》だ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室《ま》では遣切《やりき》れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証《ないしょ》でどうともするだよ。」
 客は赤黒く、口の尖《とが》った、にきびで肥《ふと》った顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
 と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「措《お》きなさい、そんな事。」
 と耳朶《みみたぼ》まで真赤《まっか》にした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
 と、飯櫃《めしびつ》に太い両手を突張《つっぱ》って、ぴ
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