ほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
 と目を円くして、きょろりと視《み》て、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な仕掛《しかけ》だろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
 ――それ、そこで言って、ひょいひょい浮足《うきあし》で出て行《ゆ》く処を、背後《うしろ》から呼んで、一銚子を誂えた。
「可《い》いのを頼むよ。」
 と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
 と振り向いて合点《がってん》々々をして、
「北国一。」
 と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。

       二

「まあ、御飯をかえなさいよ。」
「ああ……御飯もいまかえようが……」
 さて客は、いまので話の口が解《ほど》けたと思うらしい面色《おももち》して、中休みに猪口《ちょく》の酒を一口した。……
「……姐《ねえ》さん、ここの前を右へ出て、大《おおき》な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑《にぎやか》な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家《まちや》の揃った処がある。あれはどこへ行《ゆ》く道だね。」
「それはね、旦那さん、那谷《なや》から片山津《かたやまづ》の方へ行く道だよ。」
「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐油《とうゆ》菅笠屋《すげがさや》の間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う家《うち》だい。」
「白粉《おしろい》や香水も売っていて、鑵詰《かんづめ》だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」
「全くだ、陰気な内だ。」
 と言って客は考えた。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」
 と給仕盆を鞠《まり》のように、とんとんと膝を揺《ゆす》って、
「治兵衛《じへえ》坊主《ぼうず》の家ですだよ。」
「串戯《じょうだん》ではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。」
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で直《じ》きと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。」

 客は、これより前《さき》、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣《や》ろうかとも思ったが、式《かた》のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙《ひま》に、自分で買って来る方が手取早《てっとりばや》い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被《かぶ》らないで、黙《だんま》りで、ふいと出た。
 直き町の角の煙草屋《たばこや》も見たし、絵葉がき屋も覗《のぞ》いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町|行《ゆ》き、一町行き……山の温泉《いでゆ》の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包《うわづつみ》の色も褪《あ》せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫《めぬき》の町の商店でも、経験のある人だから、気短《きみじか》にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚《なまめ》かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢《いきおい》がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動《こなし》は早く褄《つま》を軽く急いだが、裾《すそ》をはらりと、長襦袢《ながじゅばん》の艶《えん》なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向《うつむ》けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄《しお》れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入《べにいり》友染《ゆうぜん》の裏が浅葱《あさぎ》の袖口で、ひったり圧《おさ》えた。
 中脊で、もの柔かな女の、房《ふっさ》り結った島田が縺《もつ》れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀《あわれ》で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後《うしろ》むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出《ひきだ》して、立返る頭髪《かみ》も量《おも》そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花《さ
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