、陰気な大年増が襖際《ふすまぎわ》へ来て、瓶掛《びんかけ》に炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが件《くだん》の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は可《い》いけれども。……次にまた浴衣に広袖《どてら》をかさねて持って出た婦《おんな》は、と見ると、赭《あか》ら顔で、太々《だいだい》とした乳母《おんば》どんで、大縞のねんね子|半纏《ばんてん》で四つぐらいな男の児《こ》を負《おぶ》ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児《こども》の顔を客の方へ揉出《もみだ》して、それ、小父《おじ》さんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾《ひっかた》げた。
学士が驚いた――客は京の某大学の仏語《ふつご》の教授で、榊《さかき》三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々《にこにこ》として、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕《あらわ》れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
昼飯《ひる》の支度は、この乳母《うば》どのに誂《あつら》えて、それから浴室へ下りて一浴《ひとあみ》した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間《まっぴるま》の夜討《ようち》のように働く。……ちょうな、鋸《のこぎり》、鉄鎚《かなづち》の賑《にぎや》かな音。――また遠く離れて、トントントントンと俎《まないた》を打つのが、ひっそりと聞えて谺《こだま》する……と御馳走《ごちそう》に鶫《つぐみ》をたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後《うしろ》から謹んで座敷へ帰ったが、上段の室《ま》の客にはちと不釣合な形に、脇息《きょうそく》を横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを焚《た》いたように赫《かッ》と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟《しょうらい》をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと
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