《ようきひ》ともたれ合って、笛を吹いている処だから余程《よっぽど》可笑《おか》しい。
 それは次のような場合であった。
 客が、加賀国|山代《やましろ》温泉のこの近江屋《おうみや》へ着いたのは、当日|午《ひる》少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和《やわら》かなちっとも気取《きどり》っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手《もみで》をしながら、御逗留《ごとうりゅう》か、それともちょっと御入浴で、と訊《き》いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈《かが》めつつ畏《かしこま》って、どうぞこれへと、自分で荷物を捌《さば》いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室《ま》が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届《ふゆきとどき》の儀は御容赦下さいまして、まず御緩《ごゆっく》りと……と丁寧に挨拶《あいさつ》をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
 実は小春日《こはるび》の明《あかる》い街道から、衝《つ》と入ったのでは、人顔も容子《ようす》も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯《じゅうたん》の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対《さんぷくつい》も、濃い霧の中に、山が遥《はるか》に、船もあり、朦朧《もうろう》として小さな仙人の影が映《さ》すばかりで、何の景色だか、これは燈《あかり》が点《つ》いても判然《はっきり》分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠《いしどうろう》に、苔《こけ》の真蒼《まっさお》なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯《さっ》と渡る風に静寂な水の響《ひびき》を流す。庭の正面がすぐに切立《きったて》の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿《うね》り蜿り自然の大巌《おおいわ》を削った径《こみち》が通じて、高く梢《こずえ》を上《あが》った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟《かけはし》のように覗《のぞ》かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥《こまどり》の囀《さえず》るような、芸妓《げいしゃ》らしい女の声がしたのであったが――
 入交《いれかわ》って、歯を染めた
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