、昼飯《ひる》の膳《ぜん》に、一銚子《ひとちょうし》添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上《たちあが》った。
 どこを探しても呼鈴《よびりん》が見当らない。
 二三度手を敲《たた》いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分《だいぶ》に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
 更に応ずるものがなかったのである。
 一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
 何か、茸《きのこ》に酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許《あしもと》へ、衝立《ついたて》の陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々《にこにこ》する。
 どうも、この鼻尖《はなさき》で、ポンポンは穏《おだやか》でない。
 仕方なしに、笑って見せて、悄々《すごすご》と座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
 で、所在なさに、金屏風の前へ畏《かしこま》って、吸子《きゅうす》に銀瓶の湯を注《つ》いで、茶でも一杯と思った時、あの小児《こども》にしてはと思う、大《おおき》な跫足《あしおと》が響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
 どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
 と息を吐《つ》いて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
 と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんな大《でけ》い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
 と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状《つったちざま》に指《ゆびさ》したのは、床の間|傍《わき》の、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》に据えた黒檀《こくたん》の机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまた
前へ 次へ
全30ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング