はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児《いぬころ》の形《かげ》も、早や見えぬ。四辺《あたり》に誰も居ないのを、一息の下《もと》に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟《とっさ》に渋面を造って、身を捻《ね》じるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立《こだち》から、広野《ひろの》の中に、もう一条《ひとすじ》、畷《なわて》と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道《あぜみち》があるのが屏風のごとく連《つらな》った、長く、丈《せい》の高い掛稲《かけいね》のずらりと続いたのに蔽《おお》われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈《か》けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟《あわ》の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜を褄《つま》にして、その掛稲の此方《こなた》に、目も遥《はるか》な野原刈田を背にして間《あわい》が離れて確《しか》とは見えぬが、薄藍《うすあい》の浅葱《あさぎ》の襟して、髪の艶《つやや》かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりを扱《しご》いて、思わず撫《な》でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾《つば》と見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男の連《つれ》が居た。縞《しま》がらは分らないが、くすんだ装《なり》で、青磁色の中折帽《なかおれぼう》を前のめりにした小造《こづくり》な、痩《や》せた、形の粘々《ねばねば》とした男であった。これが、その晴やかな大笑《おおわらい》の笑声に驚いたように立留って、廂《ひさし》睨《にら》みに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑《おかし》いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人《としより》にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖《どてら》で出歩行《である》く。勢《いきおい》なのは浴衣一枚、裸体《
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