えられた僕であれば、もとよりあるいは玄妙なる哲学的見地に立って、そこに立命の基礎を作り、またあるいは深奥なる宗教的見地に居《お》って、そこに安心の臍《ほぞ》を定めるという世にいわゆる学者、宗教家達とは自《おのずか》らその信仰状態を異にする気の毒さはいう迄もない。
僕はかの観音経を読誦《どくじゅ》するに、「彼の観音力を念ずれば」という訓読法を用いないで、「念彼観音力《ねんぴかんのんりき》」という音読法を用いる。蓋《けだ》し僕には観音経の文句――なお一層適切に云えば文句の調子――そのものが難有《ありがた》いのであって、その現《あらわ》してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有《も》たぬのである。この故に観音経を誦《じゅ》するもあえて箇中の真意を闡明《せんめい》しようというようなことは、いまだかつて考え企てたことがない。否《い》な僕はかくのごとき妙法に向って、かくのごとく考えかくのごとく企つべきものでないと信じている。僕はただかの自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚《とうと》しとするものである。
そこで文章の死活がまたしばしば
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング