いのに、口実がなくつては不可ませんから、途中から引返したことなどもあつたんです。それから本を借りて持つて入るときに、見付けられるとわるいから帯の下と背中へ入れるんです。是が後でナカ/\用にたつたことがある。質屋へ物を持つて行くに此の伝で下宿屋を出るので、訳はないのです。確に綿入三枚……怪しからんこツた。もし何処へ往つたと見咎《みとが》められると、こゝに不思議な話がある、極《ごく》ないしよなんだけれども、褌《ふんどし》を外して袂《たもと》へ忍ばせて置くんで、宜《よ》うがすか、何の為だと云ふと、其塾の傍に一筋の小川が流れて居る、其小川へ洗濯に出ましたと斯《か》う答へるんです。さうすると剣突を喰つて、「どうも褌を洗ひに行きますと云ふのは、何だか申上げ悪《にく》いから黙つて出ました。」と言ひ抜ける積りさ。
 それから読む時、一番困つたのは彼の美少年録、御存じのとほり千ペエジ以上といふ分厚なんです。いつたい何時も誤魔化読《ごまかしよみ》をする時には、小説を先づ斯う開いて、其上へ、詰り英語の塾だから、ナシヨナル読本、スイントンの万国史などを載せる。片一方へ辞書を開いて置くのです。さうして跫音がするとピタリと辞書を裏返しにして乗掛《のつけ》るしかけなんでせう。処が薄い本だと宜いが、厚いのになると其呼吸が合ひますまい。其処でかたはらへ又沢山課目書を積んで、此処へ辞書を斜めにして建掛けたものです。さうすると厚いのが隠れませう。最も恁うなるといろ[#「いろ」に傍点]あつかひ。夜がふけると、一層身に染みて、惚込《ほれこ》んだ本は抱いて寝るといふ騒ぎ、頑固な家扶《かふ》、嫉妬《じんすけ》な旦那に中をせか[#「せか」に傍点]れていらつしやる貴夫人令嬢方は、すべて此の秘伝であひゞき[#「あひゞき」に傍点]をなすつたらよからうと思ふ。
 串戯《じやうだん》はよして、私が新しい物に初めて接したやうな考へをしたのは、春廼家《はるのや》さんの妹と背かゞみで、其のころ書生気質は評判でありましたけれども、それは後に読みました。最初は今申した妹と背かゞみ、それを貸して呉れた男の曰く、この本は気を付けて考へて読まなくてはいけないよと、特にさう言はれたからビクビクもので読んで見た。第一番冒頭に書して、確かお辻と云ふ女《むすめ》、「アラ水沢《みさは》さん嬉しいこと御一人きり。」よく覚えて居るんです。お話は別になりますが、昔の人が今の小説を読んで、主人公の結局《つゞま》る所がないと云ふ、「武士の浪人ありける。」から「八十までの長寿を保ちしとなん。」と云ふ所まで書いてないから分らないと云ふが、なるほど幼稚な目には、然う云ふ考へがするでせう。妹と背かゞみに於て、何故、お雪がどうなるだらうと、いつまでも心配で/\堪らなかつたことがありますもの。
 東京の新聞は余り参りませんで、京都の新聞だの、金沢の新聞に、誰が書いたんだか、お家騒動、附たり武者修業の話が出て居るんです。其中に唯二三枚あつて見たんです、四五十回は続いたらうと思ひますが、未だに一冊物になつても出ず、うろ覚えですから間違かも知れませんが、春廼家さんなんです、或ひは朝野新聞とも思ふし、改進新聞かとも思ふんだが、「こゝやかしこ。」と仮名の題で、それがネ、大分文章の体裁が変つて、あたらしい書方なんです。中に一人お嬢さんが居るんだネ、其のお嬢さんに、イヤな奴が惚れて居て口説くんだネ。(何かヒソ/\いふ、顔を赧《あか》くする、又何かいふ、黙つて横を向く、進んで何かいはうとする、女はフイと立つ。)と、先づ恁うです。おもしろいぢやありませんか。演劇《しばゐ》なら両手をひろげて追まはす。続物の文章ならコレおむすとしなだれかゝる[#「しなだれかゝる」に傍点]、と大抵相場のきまつて居た処でせう。
 また一人の友人があつて、貧乏長屋の二階を借りて、別に弟子を取つて英語を教へて居つた。壁隣が機業家《はたや》なんです、高い山から谷底見れば小万可愛や布|晒《さら》すなんぞと、工女の古い処を唄つて居るのを聞きながら、日あたりの可い机の傍で新版を一冊よみました。これが私ども先生の有名ないろ懺悔[#「いろ懺悔」に白丸傍点]でございました。あの京人形[#「京人形」に白丸傍点]の女生徒の、「サタン退けツ」「前列進め」なぞは、其の時分、幾度繰返したか分りません。夏痩[#「夏痩」に白丸傍点]は、辰《たつ》ノ口《くち》といふ温泉の、叔母の家で、従姉《いとこ》の処へわきから包ものが達《とゞ》いた。其上包になつて読売新聞が一枚。ちやうど女主人公の小間使が朋輩の女中の皿を壊《こは》したのを、身に引受けて庇《かば》ふ処で、――伏拝むこそ道理なれ――といふのを見ました。纏《まとま》つたのは、たしかこちらへ参つてからです。田舎は不自由ぢやありませんか。しかしいろ懺悔[#「いろ
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