、聞かせるものは、こりやよほど面倒だから、母もなりたけ読ませないやうにしたんです。それに親父が八釜敷《やかまし》い、論語とか孟子とか云ふものでなくつては読ませなかつた。処が少しイロハが読めるやうになつて来ると、家にある本が読みたくなつたでせう。読んでると目付《めつ》かつて恐ろしく叱《しか》られたんです。そこで考へて、机の上に斯《か》う掛つて居る、机掛ね、之《これ》を膝の上へ被《かぶ》さるやうに、手前を長く、向うを一杯にして置くので、二階に閉籠つて人の跫音《あしおと》がするとヒヨイと其の下へ隠すといふ、うまいものでせう。時々見付かつて、本より、私の方が押入へしまはれました。恁《かう》いふのはいくらもある。一葉女史なんざ草双紙を読んだ時、此《この》人は僕と違つて土蔵があつたさうで、土蔵の二階に本があるので、故《わざ》と悪戯《いたづら》をして、剣突《けんつく》を食つて、叱られては土蔵へ抛《はふ》り込まれるのです。窓に金網が張つてあるのでせう。其網の目をもるあかりで細かい仮名を読んだ。其の所為《せゐ》で、恐ろしい近視眼《ちかめ》、これは立女形《たてをやま》の美を傷つけて済みません。話が色々になりますが、僕が活版本を始めて見たのは結城合戦花鍬形《ゆふきがつせんはなくはがた》といふのと、難波戦記《なにはせんき》、左様です、大阪の戦のことを書いたのです。厚い表紙で赤い絵具をつけた活版本なんです。友達が持つて居たので、其時初めて活版になつた本を見ました。殊にあゝ云ふ百里余も隔つた田舎《ゐなか》ですから、それまでは未《ま》だ活版と云ふものを知らなかつたので、さあ読んで見ると又面白くつて仕様がない。無論前に柔い、「でござんすわいナー」と書いてある草双紙を見た挙句に、親父がね、其癖大好なんで、但し硬派の方なんだから、私に内々で借りて来たあつた呉越軍談、あの、伍子胥《ごししよ》の伝の所が十冊ばかり。其の第一冊目でせう。秦《しん》の哀公が会を設けて、覇を図る処があつて、斉《せい》国の夜明珠《やめいしゆ》、魯《ろ》国の雌雄剣、晋《しん》国の水晶簾《すゐしやうれん》などとならぶ中に、子胥先生、我《わが》楚国|以《もつ》て宝とするなし、唯善を以て宝とすとタンカを切つて、大気焔を吐く所がある。それから呉越軍談が贔屓になる。従つて堅いものが好きになつて来た。それで水滸伝《すゐこでん》、三国志、関羽の青龍刀、張飛の蛇矛などが嬉しくつて堪らない。勿論《もちろん》其時分、雑誌は知らず新聞には小説があるものか無いものか分らぬ位。処が其中に何んですネ。英語を教はらうと、宣教師のやつて居る学校へ入つたのです。さうするとその学校では郵便報知新聞を取つて居た。それに思軒さんの瞽使者《こししや》が毎日々々出て居ます。是はまた飛放れて面白いので、こゝで、新聞の小説を読むことを覚えました。また病つきで課業はそつちのけの大怠惰《おほなまけ》、後で余所《よそ》の塾へ入りましたが、又|此《この》先生と来た日にや決して、然《さ》う云ふものを読ませない。処が、例の難波戦記を貸して呉《く》れた友人ね、其お友人《ともだち》に智慧を付けられて貸本屋へ借りに行くことを覚えたのです。併し塾に居るんですから、ナカ/\きびしくつて外出をさせません。それを密《ひそか》に脱出しては借りに行くので、はじめは一冊づゝ借りて来たのが、今度読馴れて来ると読方が早くなつて、一冊や二冊持つて帰つた所が直に読んで仕舞ふから、一度に五冊、六冊、一晩にやツつける。其時ザラにアヽ云ふ新版物から、昔の本を活版に直したものを無暗に読んだ。どんな物を読んだか能《よ》く覚えて居ませんが、其中に遺恨骨髄に徹して居る本が一冊あります。矢張難波戦記流の作なんですが、借りて来て隠して置いたのを見付かつたんで、御取上げとなつて仕舞つた。処で其時分は見料が廉《やす》いのだけれども、此本に限つて三十銭となつた。
南無三宝三十銭、支出する小遣がないから払ふ訳に往《ゆ》かない。処で、どう間違つたか小学校の先生が褒美にくれました記事論説文例、と云ふのを二冊売つたんです、是が悪事の初めさ。それから四書を売る。五経を殺すね。月謝が滞る、叔母に泣きつくと云ふ不始末。のみならず、一度ことが露顕に及んでからは、益々塾の監督が厳重になつて読むことが出来なくなつた。さうなると当人既に身あがりするほどの縁なんだから、居ても起《た》つても逢ひたくツて、堪《たま》りますまい。毎日夕刻|洋燈《ラムプ》を点《つ》ける時分、油壷の油を、池の所へあけるんです。あけて油を買ひに、と称して戸外《おもて》へ出て貸本屋へ駈付ける。跫音《あしおと》がしては不可《いか》んから跣足《はだし》で出たこともありますよ。処がどうも毎晩油を買ひに行く訳にいかないぢやありませんか。何か工風をしなければならな
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