。」
「ハリコフ……」私は老人の聲に續いて、思はず聲を上げた。そして、今自分の傍に坐つてゐる老人と、その故郷との隔りの餘に遠過ぎる事を傷ましく思ひ浮べた。
「さうです。ハリコフを出てからかれこれ一年になります。あの町がその後どうなつたか、私の家、私の家族がどうなつたかは少しも分りません……」かう云つてちよつと詞を途切つた老人は深く眉を顰めたが、少しせきこむやうにして續けた。「君はツアアル一家虐殺の話を聞きましたか?」
「聞きました。ほんとに殘虐《グラウザム》な話です。」
「然し、私の家族がさう云ふ目に會つてゐないとは、どうして云へませう……」老人の聲は沈んだ。そして、形の好い、高い鼻の下に生えてゐる、如何にも身柄の好さを語るやうな銀白の髭が細く、幽かに顫へた。
「では、全く一人で日本へ來られたのですね。」
「さうです。たつた一人でです。私は全く妻子の運命を考へる隙もなく命一つで遁げて來ました。とに角、この平和な日本へ來るまでの困難は考へても恐ろしい程でした。今はTホテルにゐるのですが、さて、これから何處へ行かうと云ふ望みもありません。それに知人はなし、ほんとに寂しい……」と、その|寂し
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