か》の竹《たけ》の木目《もくめ》をすつかり暗記《あんき》してしまふといふいんちき[#「いんちき」に傍点]師《し》のことだ。而《しか》も、その暗記《あんき》の仕方《しかた》といふのが、先《ま》づ日光《につくわう》の中《なか》で、次《つぎ》は曇《くも》り日《び》、次《つぎ》は夕方《ゆふがた》、次《つぎ》は電燈《でんとう》、結局《けつきよく》最後《さいご》に蝋燭《らふそく》の光《ひかり》の中《なか》でといふ風《ふう》に明暗《めいあん》の順序《じゆんじよ》を追《お》つて眼《め》を慣《な》らしながら研究《けんきう》暗記《あんき》し、乏《とぼ》しい明《あか》るさの中《なか》でもこの木目《もくめ》はこの牌《パイ》とすぐ分《わか》るやうに努力《どりよく》するのだと言《い》ふ。言《い》はば勝《か》ちたいといふためのその執拗《しつえう》な努力《どりよく》、勿論《もちろん》外《ほか》の牌《パイ》を使《つか》ふことにでもなれば何《なん》の役《やく》に立《た》たう筈《はず》もないのに、そんな骨折《ほねを》りをするといふ根氣《こんき》よさ、陰澁《いんじふ》さ、それが外《ほか》ならぬ麻雀牌《マアジヤンパイ》のあの木目《もくめ》に對《たい》してといふだけに全《まつた》く驚《おどろ》かずにはゐられない。
が、然《しか》し、それもこれもつまりは勝負事《しようぶごと》に勝《か》ちたいといふ慾《よく》と、誇《ほこり》と、或《あるひ》は見得《みえ》とからくるのかと思《おも》ふと、人間《にんげん》の卑《いや》しさ淺《あさ》ましさも少々《せう/\》どんづまりの感《かん》じだが、支那人《しなじん》の麻雀《マアジヤン》ばかりとは言《い》はず、日本人《にほんじん》のあの花合《はなあは》せにさへ實《じつ》に多岐多樣《たきたやう》な詐欺《さぎ》、いんちき[#「いんちき」に傍点]の仕方《しかた》があるといふのだから、勝負事《しようぶごと》といふものが存在《そんざい》する限《かぎ》り止《や》むを得《え》ないことかも知《し》れない。一|時《じ》麻雀競技會《マアジヤンきやうぎくわい》の常勝者《じやうしようしや》としてその技法《ぎはふ》をたゞ驚歎《きやうたん》されてゐた某《それがし》が、支那人式《しなじんしき》の仕方《しかた》からすれば至極《しごく》幼稚《えうち》な不正《ふせい》を行《おこな》つてゐたことが分《わか》るし、結局《けつきよく》麻雀界《マアジヤンかい》から抹殺《まつさつ》されるに到《いた》つたなどは甚《はなは》だ殷鑑《ゐんかん》遠《とほ》からざるものとして、その心根《こゝろね》の哀《あは》れさ、僕《ぼく》は敢《あ》へて憎《にく》む氣《き》にさへならない。同《おな》じ不正《ふせい》を企《くわだて》るのならば、百三十六|個《こ》の麻雀牌《マアジヤンパイ》の背中《せなか》の竹《たけ》の木目《もくめ》を暗記《あんき》するなどは、その努力感《どりよくかん》だけでも僕《ぼく》には寧《むし》ろ氣持《きもち》がいい。
5
日本《にほん》の麻雀《マアジヤン》も近頃《ちかごろ》は少々《せう/\》猫《ねこ》も杓子《しやくし》もの感《かん》じになつてしまつたが、僅《わづ》か四五|年《ねん》ほどの間《あひだ》にこれほど隆盛《りうせい》を見《み》た勝負事《しようぶごと》はあるまいし、またこれほど組織立《そしきだ》つて麻雀《マアジヤン》を社會化《しやくわいくわ》したのも日本《にほん》だけではあるまいか? 圍碁《ゐご》や將棊《しやうぎ》や花合《はなあは》せの傳統《でんとう》は長《なが》い。撞球《どうきう》にしてもそれが今《いま》ほど一|般的《ぱんてき》になるまでには二三十|年《ねん》はかかつてゐる。戸外《こぐわい》スポオツにしても、野球《やきう》は勿論《もちろん》だが、近頃《ちかごろ》それと人氣《にんき》を角逐《かくちく》しかけて來《き》た蹴球《しうきう》にしてもその今日《こんにち》を見《み》るまでには慶應義塾蹴球部《けいおうぎじゆくしうきうぶ》の隱《かく》れたる長《なが》い努力《どりよく》があつた。が、麻雀《マアジヤン》は忽《たちま》ちにして日本《にほん》の社會《しやくわい》に飛躍《ひやく》した。これは一|面《めん》は明《あきらか》に麻雀戲《マアジヤンぎ》そのものの魅力《みりよく》からだ。そして、一|面《めん》は空閑緑《くがみどり》以下《いか》の識者《しきしや》の盡力《じんりよく》からに違《ちが》ひない。
僕《ぼく》の知《し》る限《かぎ》りでは、日本《にほん》の麻雀《マアジヤン》の發祥地《はつしやうち》は例《れい》の大震災後《だいしんさいご》に松山《まつやま》省《しやう》三が銀座裏《ぎんざうら》から移《うつ》つて一|時《じ》牛込《うしごめ》の神樂坂上《かぐらざかうへ》に經營《けいえい》してゐたカフエ・プランタンがそれらしい。勿論《もちろん》、個個《ここ》に遊《あそ》び樂《たの》しんでゐた人達《ひとたち》は外《ほか》にもあつたらうが、少《すくな》くとも麻雀戲《マアジヤンぎ》の名《な》を世間的《せけんてき》に知《し》らせたのはどうもあすこだつたやうに思《おも》はれる。その意味《いみ》で、狹《せま》い路次《ろじ》の奧《おく》にあつた、木造《もくざう》の、あのささやかな洋館《やうくわん》は日本麻雀道《にほんマアジヤンだう》のためには記念保存物《きねんほぞんぶつ》たる價値《かち》を持《も》つてゐるかも知《し》れない。
「どうも今《いま》考《かんが》へると、をかしなことをやつてゐたもんだよ。」
と、佐佐木茂索《ささきもさく》は或《あ》る時《とき》僕《ぼく》に彼《かれ》らしい靜《しづ》かな笑《わら》ひを洩《も》らしながら語《かた》るのだつた。
何《なん》でも市川猿之助《いちかはゑんのすけ》と平岡《ひらをか》權《ごん》八|郎《らう》が洋行歸《やうかうがへ》りに上海《シヤンハイ》で麻雀牌《マアジヤンパイ》を買《か》ひうろ覺《おぼ》えにその技法《ぎはう》を傳《つた》へたのださうだが、集《あつま》るものは外《ほか》に松山《まつやま》省《しやう》三、佐佐木茂索《ささきもさく》、廣津和郎《ひろつかずを》、片岡鐵兵《かたをかてつへい》、松井潤子《まつゐじゆんこ》、後《のち》に林茂光《りんもくわう》、川崎備寛《かはさきびくわん》、長尾克《ながをこく》などの面面《めんめん》で、一|筒《とう》二|筒《とう》を一|丸《まる》二|丸《まる》、一|索《さう》二|索《さう》を一|竹《たけ》二|竹《たけ》といふ風《ふう》に呼《よ》び、三元牌《サンウエンパイ》を※[#「石+(朔のへん−屮)/(墟のつくり−虍)、第3水準1−89−8]《ポン》されたあと殘《のこ》りの一|枚《まい》を捨《す》てると、それが槓《カン》になり、その所有者《しよいうしや》に嶺上開花《リンシヤンカイホオ》の機會《きくわい》を與《あた》へるので捨《す》てられなくなるといふ風《ふう》な妙《めう》なルウルもあり、何《なに》しろ近頃《ちかごろ》のやうに明確《めいかく》な標準規約《へうじゆんきやく》もなく、第《だい》一|傳《つた》へる人《ひと》がうろ覺《おぼ》えの怪《あや》しい指導振《しだうぶり》なのだから、ずゐぶんをかしな戰《たゝか》ひを交《まじ》へてゐたものらしい。
「林茂光《りんもくわう》がくるやうになつてから、だいぶすべてが調《とゝの》つて來《き》たが、僕《ぼく》はその時分《じぶん》から大概《たいがい》負《ま》けなかつたよ。」
と、これも佐佐木茂索《ささきもさく》の自慢話《じまんばなし》だ。
その頃《ころ》、それが賭博《とばく》との疑《うたが》ひを受《う》けて、或《あ》る晩《ばん》一|同《どう》がその筋《すぢ》から取《と》り調《しら》べを受《う》けるやうな事件《じけん》が持《も》ち上《あが》つたが、取《と》り調《しら》べる側《がは》がその技法《ぎはふ》を知《し》らないので誰《だれ》かが滔滔《たうたう》と講釋《かうしやく》をはじめ、係官《かゝりくわん》を烟《けむり》に卷《ま》いたといふ一|插話《さふわ》もある。勿論《もちろん》、何《なん》の事《こと》もなく疑《うたが》ひだけで濟《す》んだのだが、一|夜《や》を思《おも》はぬ所《ところ》で明《あ》かしてしまつた誰彼《たれかれ》、あまり寢覺《ねざ》めがよかつた筈《はず》も無《な》いが、何《なん》でも物事《ものごと》の先驅者《せんくしや》の受難《じゆなん》の一卷《ひとまき》とすれば、近頃《ちかごろ》の仕合《しあは》せな新《あたら》しい麻雀《マアジヤン》好きの面面《めんめん》はすべからくそれ等《ら》の諸賢《しよけん》に敬意《けいい》を捧《さゝ》げて然《しか》るべきかも知《し》れない。
6
日本《にほん》の文藝的作品《ぶんげいてきさくひん》に麻雀《マアジヤン》のことが書《か》かれたのは恐《おそ》らく夏目漱石《なつめさうせき》の「滿韓《まんかん》ところどころ」の一|節《せつ》が初《はじ》めてかも知《し》れない。無論《むろん》、讀書人《どくしよじん》夏目漱石《なつめさうせき》は勝負事《しようぶごと》には感興《かんきよう》を持《も》つてゐなかつたのであらうが、それは麻雀競技《マアジヤンきやうぎ》の甚《はなは》だ漠然《ばくぜん》とした、斷片的《だんぺんてき》な印象《いんしよう》を數行《すうぎやう》綴《つゞ》つたのに過《す》ぎない。が、近代日本《きんだいにほん》のこの優《すぐ》れた文人《ぶんじん》の筆《ふで》に初《はじ》めて麻雀《マアジヤン》のことが書《か》かれたといふのは不思議《ふしぎ》な因縁《いんねん》とも言《い》ふべきで、カフエ・プランタンで初《はじ》めて麻雀《マアジヤン》を遊《あそ》んだ人達《ひとたち》に文人《ぶんじん》、畫家《ぐわか》が多《おほ》かつたといふのと相俟《あひま》つて、麻雀《マアジヤン》と文藝《ぶんげい》との間《あひだ》には何《なに》か一|種《しゆ》のつながりがあるやうな氣持《きもち》さへする。それにさすがは文學《ぶんがく》の國《くに》支那《しな》の遊《あそ》びで[#「遊《あそ》びで」は底本では「遊《あそ》びて」]、役《やく》の名《な》に清一色《チンイイソオ》とか、國士無雙《コオシフウサン》とか、海底撈月《ハイチイラオイエ》とか、嶺上開花《リンシヤンカイホウ》とか、四喜臨門《スウシイリンメン》とかいふやうな如何《いか》にも詩味《しみ》のある字句《じく》を使《つか》つてあるのも面白《おもしろ》い。恐《おそ》らくこれ等《ら》の字《じ》に就《つ》いての感《かん》じが分《わか》るといふだけでも僕等《ぼくら》日本人《にほんじん》は歐米人達《おうべいじんたち》よりもずつとずつと麻雀《マアジヤン》を味《あぢは》ひ樂《たの》しみ方《かた》が深《ふか》いだらうと想像《さうざう》される。
さて初《はじ》めに書《か》いたやうに初《はじ》めて麻雀牌《マアジヤンパイ》を見《み》て、その牌音《パイおと》を聞《き》いたといふだけなら、僕《ぼく》は近頃《ちかごろ》の麻雀隆盛《マアジヤンりうせい》にいさゝか先駈《さきが》けするものだつたが、初《はじ》めて牌《パイ》を手《て》に入《い》れたのは大正《たいしやう》十四|年《ねん》の秋《あき》で、それから誰《たれ》に教《をそ》はるともなく次第《しだい》に習《なら》ひ覺《おぼ》えて、去年《きよねん》あたりちよつとその熱病期《ねつびやうき》だつたとも言《い》へる。そして、近頃《ちかごろ》はだいぶ技法《ぎはふ》にも自信《じしん》を得《え》て來《き》たが、運《うん》に左右《さいう》されてしまふ或《あ》る境地《きやうち》だけはどうにも仕方《しかた》がなく、時《とき》にあまりに衰運《すゐうん》に沈湎《ちんめん》させられると、ちよつと麻雀《マアジヤン》にも嫌厭《げんえん》たるものを感《かん》じる。けれど、二三|日《にち》もたつともうそろそろむづむづしてくるのだから、この熱病《ねつびやう》生易《なまやさ》しいことではなかなか全快《ぜんくわい》しさうにもない。
相手方《あひてかた
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