か》の竹《たけ》の木目《もくめ》をすつかり暗記《あんき》してしまふといふいんちき[#「いんちき」に傍点]師《し》のことだ。而《しか》も、その暗記《あんき》の仕方《しかた》といふのが、先《ま》づ日光《につくわう》の中《なか》で、次《つぎ》は曇《くも》り日《び》、次《つぎ》は夕方《ゆふがた》、次《つぎ》は電燈《でんとう》、結局《けつきよく》最後《さいご》に蝋燭《らふそく》の光《ひかり》の中《なか》でといふ風《ふう》に明暗《めいあん》の順序《じゆんじよ》を追《お》つて眼《め》を慣《な》らしながら研究《けんきう》暗記《あんき》し、乏《とぼ》しい明《あか》るさの中《なか》でもこの木目《もくめ》はこの牌《パイ》とすぐ分《わか》るやうに努力《どりよく》するのだと言《い》ふ。言《い》はば勝《か》ちたいといふためのその執拗《しつえう》な努力《どりよく》、勿論《もちろん》外《ほか》の牌《パイ》を使《つか》ふことにでもなれば何《なん》の役《やく》に立《た》たう筈《はず》もないのに、そんな骨折《ほねを》りをするといふ根氣《こんき》よさ、陰澁《いんじふ》さ、それが外《ほか》ならぬ麻雀牌《マアジヤンパイ》のあの木目《もくめ》に對《たい》してといふだけに全《まつた》く驚《おどろ》かずにはゐられない。
が、然《しか》し、それもこれもつまりは勝負事《しようぶごと》に勝《か》ちたいといふ慾《よく》と、誇《ほこり》と、或《あるひ》は見得《みえ》とからくるのかと思《おも》ふと、人間《にんげん》の卑《いや》しさ淺《あさ》ましさも少々《せう/\》どんづまりの感《かん》じだが、支那人《しなじん》の麻雀《マアジヤン》ばかりとは言《い》はず、日本人《にほんじん》のあの花合《はなあは》せにさへ實《じつ》に多岐多樣《たきたやう》な詐欺《さぎ》、いんちき[#「いんちき」に傍点]の仕方《しかた》があるといふのだから、勝負事《しようぶごと》といふものが存在《そんざい》する限《かぎ》り止《や》むを得《え》ないことかも知《し》れない。一|時《じ》麻雀競技會《マアジヤンきやうぎくわい》の常勝者《じやうしようしや》としてその技法《ぎはふ》をたゞ驚歎《きやうたん》されてゐた某《それがし》が、支那人式《しなじんしき》の仕方《しかた》からすれば至極《しごく》幼稚《えうち》な不正《ふせい》を行《おこな》つてゐたことが分《わか》るし、結局《
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