くめまさを》ならずとも、思《おも》はず微苦笑《びくせう》せずにはゐられない。いつたい誰《だれ》でも運勢《うんせい》が傾《かたむ》いてくると、自然《しぜん》とじたばたし出《だ》すのは人情《にんじやう》の然《しか》らしむる所《ところ》だが、五|段《だん》里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]《さとみとん》は紙入《かみいれ》からお守札《まもりふだ》を並《なら》べ出《だ》す、四|段《だん》古川緑波《ふるかはりよくは》はシガアレツト・ライタアで切《き》り火《び》をする。三|段《だん》池谷《いけのや》[#ルビの「いけのや」は底本では「いけやの」]信《しん》三|郎《らう》は骰子《サイツ》を頭上《づじやう》にかざして禮拜《らいはい》する。僕《ぼく》など麻雀《マージヤン》はしばしば細君《さいくん》と口喧嘩《くちけんくわ》の種子《たね》になるが、これが臨戰前《りんせんまへ》だときつと八|卦《け》が惡《わる》い。
「今日《けふ》は奇數番號《きすうばんがう》の自動車《じどうしや》には絶對《ぜつたい》に乘《の》らないぞ。」
「向《むか》うに着《つ》くまで猫《ねこ》を見《み》なけりや勝《かち》だ。」
などと年甲斐《としがひ》もなく男《をとこ》一|匹《ぴき》がそんな下《くだ》らないことを考《かんが》へたりするのも、麻雀《マアジヤン》に苦勞《くらう》した人間《にんげん》でなければ分《わか》らない味《あぢ》かも知《し》れない。
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「知《し》らない支那人《しなじん》と麻雀《マアジヤン》を遊《あそ》ぶのはよつぽど注意《ちゆうい》しなければいけない。」
とは或《あ》る向《むか》うの消息通《せうそくつう》が僕《ぼく》に聞《き》かせた詞《ことば》だが、ばくち[#「ばくち」に傍点]好《ず》きで、またばくち[#「ばくち」に傍点]の天才《てんさい》の支那人《しなじん》だけに麻雀道《マアジヤンだう》に於《おい》ても中《なか》には恐《おそ》ろしい詐欺《さぎ》、いんちき[#「いんちき」に傍点]を企《くはだ》てるものが可成《かな》りあるらしい。そして、その仕方《しかた》もいろいろ聞《き》かされたが、僕《ぼく》が如何《いか》にも支那人式《しなじんしき》だなと一|番《ばん》感心《かんしん》し、且《か》つ恐《おそ》るべしと思《おも》つたのは、百三十六|個《こ》もある麻雀牌《マアジヤンパイ》の背中《せな
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