》の扱《あつか》へる時《とき》ほど麻雀《マージヤン》に快《こゝろよ》い陶醉《たうすゐ》を感《かん》じる時《とき》はない。自然《しぜん》、そこが麻雀《マージヤン》の長所《ちやうしよ》でもあり短所《たんしよ》でもあつて、どつちかと言《い》へば玄人筋《くろうとすぢ》のガンブラアには輕蔑《けいべつ》される勝負事《しようぶごと》のやうに思《おも》はれる。けれど、實際《じつさい》はそれこそ麻雀《マージヤン》が人達《ひとたち》を魅惑《みわく》する面白《おもしろ》さなので、誰《だれ》しも少《すこ》しそれに親《した》しんでくるといつとなくその日《ひ》その時《とき》の縁起《えんぎ》まで擔《かつ》ぐやうになるのも愉快《ゆくわい》である。そして、その點《てん》でとりわけ物事《ものごと》に縁起《えんぎ》を擔《かつ》ぐ支那人《しなじん》が如何《いか》に苦心《くしん》焦慮《せうりよ》するかはいろいろ語《かた》られてゐることだが、全《まつた》く外《ほか》のことでは如何《いか》なる擔《かつ》ぎ屋《や》でもない僕《ぼく》が麻雀《マージヤン》の日《ひ》となると、その日《ひ》の新聞《しんぶん》に出《で》てゐる運勢《うんせい》が變《へん》に氣《き》になる。で、たとへば「思《おも》はぬ大利《たいり》あり」とか「物事《ものごと》に蹉跌《さてつ》あり、西方《せいはう》凶《きやう》」などといふ、考《かんが》へれば馬鹿《ばか》らしい暗示《あんじ》が卓子《テーブル》[#ルビの「テーブル」は底本では「テー ル」]を圍《かこ》む氣持《きもち》を變《へん》に動《うご》かすこと我《われ》ながらをかしいくらゐだ。
滑稽《こつけい》なのは、日本《にほん》の麻雀道《マージヤンだう》のメツカの稱《しよう》ある鎌倉《かまくら》では誰《だれ》でも奧《おく》さんが懷姙《くわいにん》すると、その檀那樣《だんなさま》がきつと大當《おほあた》りをすると言《い》ふ。所《ところ》が、何《なん》でも久米正雄夫人《くめまさをふじん》自身《じしん》の懷姙中《くわいにんちう》の運勢《うんせい》の素晴《すばら》しかつたことは今《いま》でも鎌倉猛者連《かまくらもされん》の語《かた》り草《ぐさ》になつてゐるくらゐださうだが、懷《ふところ》に入《はい》つてふとるといふ八卦《はつけ》でもあらうか? 少少《せうせう》うがち過《す》ぎてゐて、良人《りやうじん》久米正雄《
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