》は別問題《べつもんだい》として、可成《かな》り自由《じいう》に延《の》び延《の》びと麻雀《マージヤン》を遊《あそ》び樂《たの》しむからではあるまいか?
 僕《ぼく》思《おも》ふに、いつたい僕等《ぼくら》日本人《にほんじん》の麻雀《マージヤン》の遊《あそ》び方《かた》は神經質《しんけいしつ》過《す》ぎる。或《あるひ》は末梢的《まつせうてき》過《す》ぎる。勿論《もちろん》技《ぎ》を爭《あらそ》ひ、機《き》を捉《とら》へ、相手《あひて》を覘《ねら》ふ勝負事《しようぶごと》だ。技法《ぎはふ》の尖鋭《せんえい》慧敏《けいびん》さは如何《いか》ほどまでも尊《たふと》ばれていい筈《はず》だが、やたらに相手《あひて》の技法《ぎはふ》に神經《しんけい》を尖《と》がらして、惡打《あくだ》を怒《いか》り罵《のゝし》り、不覺《ふかく》の過《あやま》ちを責《せ》め咎《とが》め、自分《じぶん》の好運《かううん》衰勢《すゐせい》にだらしなく感情《かんじやう》を動亂《どうらん》させるなどは甚《はなは》だしばしば僕《ぼく》のお眼《め》に掛《か》かることだが、そして、僕《ぼく》と雖《いへど》も敢《あ》へてそれが全然無《ぜんぜんな》いとは言《い》はないが、その如何《いか》にもあくせくした感《かん》じは常《つね》に僕《ぼく》をして眉《まゆ》を顰《ひそ》めしめる。言《い》ひ換《か》へると、どうもゆとり[#「ゆとり」に傍点]が無《な》い、棘棘《とげとげ》し過《す》ぎる。だから、長《なが》い戰《たゝか》ひに堪《た》へ得《え》ず、結局《けつきよく》心身共《しんしんとも》にくたくたに疲《つか》れ切《き》つてしまふのだらうが、思《おも》ふに、支那人《しなじん》の麻雀戲《マージヤンぎ》には彼等《かれら》の風格《ふうかく》に存《そん》するやうな悠悠味《いういうみ》がどこかにあるのではなからうか?

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 一|時《じ》、これは麻雀界《マージヤンかい》の論議《ろんぎ》の的《まと》になつたことだが、麻雀《マージヤン》が技《ぎ》の遊《あそ》びといふより以上《いじやう》に運《うん》の遊《あそ》びであることは爭《あらそ》へない。實際《じつさい》、運《うん》のつかない時《とき》と來《き》たらこれほど憂欝《いううつ》な遊《あそ》びはないし、逆《ぎやく》に運《うん》の波《なみ》に乘《の》つて天衣無縫《てんいむほう》に牌《パイ
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