感じられる。で、結局文藝作品の映畫化は十分の成功を納めることは可成りむづかしいし、その映畫的價値も自然乏しいものが多いのに違ひない。
 そこで問題は映畫と文藝的内容との關係如何と云ふことになつてくるが、個々の原作などから離れて廣い意味の文藝的内容として考へれば、それは勿論映畫とは密接な關係がある。この頃の映畫の傾向から云へば、何等かの文藝的内容を持たないものは殆ど無いと云つていいくらゐだ。然し、文藝的内容と云つても映畫に向くものと向かないものとある。云ひ換へれば、その如何なるものを捉へるか、それを如何に映畫的に生かすかが根本であらう。その意味で、反映畫的な或は非映畫的な多岐多樣の文藝的内容を持つてゐる文藝作品などよりも、映畫的に作られ、且つ映畫的な文藝的内容を深く豐かに持つ處のシナリオに依ることが映畫の本道であることは云ふまでもない。
 處で、そのよき文藝的内容を捉へながら、而も、それを映畫的に殆ど遺憾なく生かしたものと云へば、私はヤニングス主演の「最後の人」を今でも忘れ難く思ふ。とにかくあの映畫ではムルナウの監督による撮影技巧も全く申し分なかつた。またヤニングスその人の優れた演技もも
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