似たものがあるために、多くの寫眞家達はその製作に盛に誘惑され、その作品を藝術がつて得意としてゐる。處が、これと全く相似た誘惑がやつぱり文藝作品と映畫の間にも存在する。つまり二者の表現の手段は全く異つてゐ、從つて、その表現し得る境地にそれぞれ獨特なもの、或は得意不得意なものがあるにも拘らず、その表現し得る内容が甚だ似通つてゐ、時には同一でもあるために、文藝作品の内容を映畫の上に表現してみようとする誘惑が生じてくる。そして、根本的には、これが文藝作品の盛に映畫化される理由だと思ふが、その誘惑は結局どつちにとつてもあんまり有難くないことだ。云ひ換へればそれは殆んどすべての場合に文藝作品の冐涜であり、映畫の映畫的獨立性を妨げるものだからだ。
云つてみれば、前に擧げた「毆られる彼奴」や「ウヰンダアミヤ夫人の扇」が如何に面白く如何に感心出來たとは云へ、それは文藝的にも映畫的にも相互に妥協し合つた鑑賞の上でのことで、原作の側から嚴密に云へば無理な點や間違つた處もあつて、その内容がぴつたり表現されてゐるなどとは勿論云へないし、映畫そのものとして見れば原作にこだはつたための不徹底さや不自然さもずゐぶん
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