、當時ちよつと私を惹きつけてゐたダヌンチオ一流の絢爛豐麗な文章に充ちてゐる「犧牲」の感じなぞまるでどこへやらだつた。尤も、流石にその頃とは脚色撮影ともに格段の進歩で、如何に文藝映畫でもこの頃はもうそんなものは無くなつた。そして、多くはあまり感心せず、また面白くないとは云つても、いつかの「毆られる彼奴」や今度の「ウヰンダアミ夫人の扇」などは、こまかくやかましく云へば原作と違つた點もあるし、原作以外なものを加へた處もあるが、先づ原作の文藝的内容もさほど喪はず捩ぢ曲げず、一方映畫的内容も面白く巧に按配して、所謂文藝映畫としては上乘のものと云へる。とにかくあれだけに行つてゐれば、原作そのものの内容は受け取れずとも、映畫的に面白いだけでも有難い。そして、それもつまりは優れた監督の手腕を得たからに違ひない。
 普通の寫眞の中に藝術寫眞製作と云ふことがずつと以前からはやつてゐる。これは云ふまでもなく繪畫の持つ藝術的内容を眞似て寫眞の上に表現しようとするものだ。が、どう眞似ても、それが藝術的價値を持ち得ないのは自明の理であるのに、その二者の表現し得る内容に一脈相通ずるものがあるために、いや、殆ど兄弟に
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