甲板《かんぱん》の一隅《ひとすみ》にぢつと佇《たゝず》みながら、今まで心の中に持つてゐた、[#底本では句点]人間的なあらゆる醜《みにく》さ、濁《にご》り、曇り、卑《いや》しさ、暗さを跡方《あとかた》もなくふきぬぐはれてしまつたやうな、美しく澄《す》み落ち着いた自分になつてゐた。修道院の莊嚴《さうごん》な、神祕《しんぴ》な清淨《せいじやう》な雰圍氣《ふんゐき》が私のすべてを薫染《くんせん》し盡《つく》してゐたのであつた。
「人間はあんなにまでも美しく清らかに生きて行くことが出來るのだ。」
 ふとさう呟《つぶや》きながら、私は瞳《ひとみ》を返して遠くなつた修道院の方を振り返つた。が、その時ポプラの林を背景にした建物の姿はもう岬の蔭《かげ》に隱《かく》れてゐた。私はそこに強く心を惹《ひ》かれるとともに堪《た》へ難いやうな離愁《りしう》を感じて、そのまま瞳《ひとみ》を膝《ひざ》に伏《ふ》せてしまつた。
 一時間ほどして船が再び棧橋《さんばし》に着いた時、函館《はこだて》の町はしらじらとした暮靄《ぼあい》の中に包まれてゐたが、それは夕《ゆふ》べの港の活躍の時であつた。そこには修道院のそれとはまる
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