つてゐるが、それは可成り鋭い発見力と、細かな解剖力と、確かな批判力とを持つてゐる明智だと云へば、一番当つてゐるやうに思はれる。即ち、この明智は芸術家芥川氏の武器であり、甲冑であり、時には自分を鮮に韜晦させる面紗《ヴエエル》である。
 智は人生の幸福な探求者ではない。また人間生活の享楽者ではない。随つて、芥川氏の智の視野に映じてくる処のものも、人生の、若しくは人間の悲哀、苦悶、憂鬱、寂寥、倦怠、幻滅――要するに暗き世の姿である。処で、さうした事象に対する氏の窺察、探求、解剖は、可成り繊細である。鋭敏である。例へば、比の作品中の逸品とも云ふべき「或る日の大石内蔵之助」の中で、氏が内蔵之助の心理の底に捉へてゐるものの如きは、その明智の冴えを遺憾なく語つてゐるものであらう。然し、その冴えが余に利き過ぎる時、例へば「枯野抄」の中で芭蕉の門弟達に放つた窺察、解剖の如きに到ると、恰も冷たいメスで人間の心理を切り分けてでもゐるやうな、甚だ人間的《ユノエン》なものを欠いた、拵へものの心理になつてしまつてゐる。云ひ換へれば、智の働きに申分はなくとも、其処には心《ハアト》の働きが余に欠け過ぎてゐると云ふより外はないのである。総じて氏の物の見方、感じ方が甚だ冷かであると非難されるのは、さうした処に起因してゐるのだと私は思ふ。
 芸術の出発点をより多く自己の体験内容に置く作家に対してより多く自己の智識内容に置く作家がある。それは各の素質、境遇に依つて必然に二つの傾向に分れるのだと思ふが、前者はその人間が直接人生に触れてゐると云ふ意味に於て表現が比較的手易く真に、或は自然に迫り得る強味がある。後者はその人間が間接に、云ひ換へれば、其処に智識が介在して人生に触れると云ふ意味に於て表現が真に、或は自然に迫るべく比較的困難である。云ふまでもなく、芥川氏はその後者である。即ち、氏は例へば、「戯作三昧」の如きに於て自己の体験を間接に取材化してはゐるが、現在までの処その直接に取材化された作品は全然無いと云つても好い。云ふならば、氏の作品の取材の殆どすべては、その智識内容から得られてゐる。然し、氏はその明智の働きと、これは氏に於ては天分的と云つても好い優れた表現の技巧に依つて、その智識から得られた取材の多くを十分真に、或は自然に表現し得てゐる。而も、なほ大体に於て、氏の芸術には出発点を智識内容に置く弱味が感
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