現代作家に対する批判と要求
――全人間的な体現を――(その一、芥川龍之介氏)
南部修太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)型《マニイル》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)菊池[#「菊池」に白丸傍点]寛氏
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忌憚なく云ふと、私は現在の芥川龍之介氏の芸術に対して何にも云ひたくはないのである。と云ふのは、私は三四年前からそれに対しては機会あるごとに思ふ処を述べて来た。そして、その思ふ処は現在に於ても何等の変化を持たないのである。で、今更に批判と云ひ、要求と云ふも、それは私にとつては要するに前言の反覆に過ぎないからである。また若しこの一文が芥川氏に読まれる事を本旨とするならば、私がこれまでに述べた処のものを大概読んでゐてくれ、「妖婆」や「南京の基督」の如きに就いては私信で議論の応酬さへしたのだから、その反覆は氏にとつても退屈以上のものではないに違ひないからである。
それから芥川氏の現在を見て誰しも気附くに違ひない事は、その創作集「羅生門」「傀儡子」時代に一期を畫して完成された芸術的境地に、云ひ換へれば、何時か其処に生じて来た作風の型《マニイル》に自ら飽き足りなくなつたらしい氏は、その境地を踏み出さう、その型を突き破らうとして、明に未に苦しみ続けてゐる事である。そして、最近に於ては「秋」や「秋山図」が世評の如く確に優れたものであつたにしても、その多くは自己の芸術を何等かの面へ展開させようとしてゐるらしい作風の動揺のまざまざしい、要するに、あれもこれもと当つてみてゐるやうな試みの域を脱しない、甚だ不熟な作品か、乃至は、ともすれば過去の作風の易きについた、何等の新創の無い作品ばかりだつたやうである。随つて、作風のしつくり落ち付いた、作的気分の十分熟しきつてゐる以前の諸作に比すれば、それ等は私の感銘からは可成り遠い作品だと云ふより外はない。で、性急な批評家の或る者は氏の芸術の硬化や、行き詰まりを云為してゐる。また或る人々はその動揺の意義を疑つて、氏に以前の作風を望んでゐる、若しくは以前の芸術以上のものを望む事を諦めようとしてゐる。私も限られた意味に於ては、それに同感しないものでもない。然し、私はその動揺の内にも窺はれる氏の人としての壮心と、芸術に対する精進的態度に敬意を払つてゐる。そして、現在までの処では私も
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