じられる。即ち、氏は拵への極致に達し得た作家であるにしても、その作品の多くには露骨に、乃至は幽かに拵へものの影が差してゐるのである。云ひ換へれば、氏の作品の多くは優れたるものと雖も、何処となく名匠の手になつた箱庭を見るやうな感じがする。均斉、精緻、繊巧その宜しきを得てゐるが、それは人生たるべくは、人間たるべくは、多くの場合何となく真実さ、自然さ、裸さ、ゆとり、柔みの感じを欠いてゐる。最近の逸品と云はれてゐる「秋」の如き、「秋山図」の如きは明にその例であらう。無論、「捨児」「南京の基督」「妖婆」「影」「妙な話」「奇怪な再会」の如き作品に到つては、氏の怪奇に対する悪趣味に出発した、露骨過ぎる拵へものである。芸術品を骨董的に愛翫する人なら知らず、それ等を頭の遊戯、筆のすさびと非難されても、恐らく作者は一言も無いだらうと私は思ふ。
処で、芥川氏の明智が人生に対して、芸術に対して如何に働いてゐるかはこれまでに云つた通りであるが、それが氏自らに対して働く時、それは積極的には氏の武器となり、消極的には氏の甲冑となり、面紗《ヴエエル》となつてゐる。今、その意味を説明する前に、私はこの一文の読者に、氏が嘗て批評に就いて有島生馬[#「有島生馬」に白丸傍点]氏に与へた反駁文と、同じく嘗て書かれた氏の感想「芸術その他」とを想ひ起し、また氏が何故に自己の直接体験を取材化しないかを一寸考へてみて戴きたく思ふ。と云ふのは、一つはその壮心の故に、一つはその負けず嫌ひの故に、一つはその智が余に自己を制肘するが故にと思はれるが、一体芥川氏は自己の弱味や隙間を外に現す事に甚だ臆病な、若しくは現す事を嫌ひな人である。これを云ひ換へれば、氏は裸にはなれない人である。即ち、氏の智は絶えず自己を守らうとする、警戒しようとする。自己を守らうとするが故に、警戒しようとするが故に、氏は常に外に対して昂然と身を持してゐる。そして、時には自己に迫つてくる処の者に対して、冷たいばかりの鋭さを持つた智の閃きで応酬する。――一言にして云へば、氏は自己を裸にし、若しくは裸にされる事を何よりも怖れると云ふ、一面からみれば甚だ強味になる、一面からみれば甚だ弱味になる、歴然たる一つの性向を持つてゐる。処で、この性向は明に芸術家芥川氏を背後から強く支配してゐる。即ち、それが好い意味に氏を支配する時、芸術に対するあの厳正な精進的態度とな
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