地もなかつた。私は水島君から「一圓《アデインゑん》……」を繰り返しながら日本人を呼び止めると云ふ零落したロシヤ人の素人賣笑婦の話を、色色聞かされてゐた。私は眼を落して、すくんだやうに佇んでゐる女をもう一度頭越しにぢつと見詰めた。何となく痛痛しい氣持がした。が、次の刹那には、何故か私の心には臆病な道義心も、氣おくれもなくなつてしまつた。そして、欲情と云ふよりも、寧ろ不思議の世界に對してそそられた好奇心から、妙に自分を力づけるやうな努力的な氣持で私は云つた。
「行かう……」
 すると、女は彈かれたやうに私を見上げて何かを云つたが、それは何の意味か聞き取れなかつた。が、滿足らしい微笑を浮べながら、急に勢づいた樣子で今まで歩いて來た道を急ぎ足に戻り始めた。私はその左背後から、變に苦笑されるやうな氣持で無言のまま追ひ從つて行つた。半町程も戻つたかと思ふと、女は私の少しも氣附かなかつたまつ暗な、狹い路次を左手へ曲つた。そして、振り向かうともせずに、何か知らむつと塵芥《ごみ》くさい臭ひのする、右左に煉瓦塀のすれすれになるやうな道をせかせかと歩き續けて行くのだつた。
「あなた、イギリス詞《ことば》、分
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