。お前が又出世せずとも宜しい。元の通りに拙尼と、人知れず……」
「まァまァ智栄殿。ここが大事のところじゃ。どうか拙者を出世さして下さりませ。今のはホンの出来心」
「その出来心が気に入らぬ」
「いや、もう決して再び、他の女に」
こうして縺《もつ》れ合っているところへ、立聞きのお幸が注進したので、奥二階から駈け着けて来た医師の奥野俊良。
「まァまァ智栄殿。まァ腹も立とうが、ここが一番大事のところ。何事も御かんべん御かんべん。とにかく先ず奥二階へ」
猛《たけ》り立った智栄尼を俊良は奥二階へ連れて行き、左内と共に哀訴嘆願。男子が二人揃って何度お辞儀をしたか拝んだか分らなかった。
つまりこの尼と金三郎とは深い関係であった。それを説いて今度の運動費を出させて、それで三人が備前岡山に乗込んだのであった。
結局どうやらこうやら、納まらぬなりに納まって、智栄尼は一先ず表二階の部屋へと帰ったが、夜更けてから又離れ座敷へ、忘れ物を取りになど拵《こしら》えて、金三郎が一人か否か、それを見廻りにと出掛けもした。尼の嫉妬《やきもち》はその時代として前代未聞、宿の者もまた興を覚《さま》していた。
明くる日になって、朝の食事が済んでからであった。突然智栄尼が腹痛に苦しみ出した。
「こりや、毒、毒殺じゃ。毒殺じゃ」
宿の者はびっくりした。
第一に駈着けたのが医師の俊良。
「なに毒殺なんどと、その様な事があるものか。正しく物中《ものあたり》で、直きに治る。さ、さ、この薬を一服」
何やら、粉薬を出して、苦しむ智栄尼の口中に割り込んだ。
しかし、その薬を服《の》んでからは一層苦しみを重ねて、唸《うな》り声は立てても言語をする事は出来なくなった。終《つい》には血嘔《ちへど》を吐いて悶《もだ》え死に死んで了《しま》った。
半田屋九兵衛夫婦も共に蒼くなった。宿泊者から変死者を出したとあっては、事がはなはだ面倒だからであった。
それは毒殺? とすればいよいよ掛り合。無論医師の俊良が、秘密を保つ為に一服盛ったなとは略《ほぼ》推察は出来るのであったが、それもしかし金三郎と娘お綾との結婚の為には、邪魔が払えた勘定でもあるので、これは絶対に秘密にという小人の奸智《かんち》。
「俊良様、御掛り合で、重々御迷惑とは存じまするが。それ、な、決して、その、毒死ではない、物中《ものあたり》の為め頓死で御座りましょうで、御手数ながらその御見立を一札どうぞ」
「や、心得て御座る。決してこれは毒死では御座らぬ。これは医師の立場からして、拙老がどこまでも保証仕るで、御心配には及ばぬ事じゃ」
届書に俊良、食べ合せ物宜しからず、脾胃《ひい》を害《そこな》い頓死|云々《うんぬん》。正に立会候者也と書き立てた。
検視の役人も来ぬではなかったが、医師の証明があるので、一通り検分の上無事に引揚げた。
急いで死体は笹山《ささやま》へ送って火葬。尼の堕落が悲惨の最期。いわゆる仏説の自業自得であった。
六
天城屋敷の池田出羽の許《もと》へ早馬で駈着けたのは野末源之丞。奥書院にて人払いの上、密談の最中。池田出羽は当惑の色をその眉宇《びう》の間に示しながら。
「シテ、その小笠原金三郎とやら申す浪人の所持致す脇差に就て、御上《おかみ》には御心覚えあらせられるかあらせられぬか。一応御伺い致されたか」
源之丞は恐る恐る。
「御伺い致しましたところ、御覚えの程シカと御心には御留めあらせられぬとの御仰せ。しかし、御傍《おそば》御用の日記取調べましたるところにては、初代長光の御脇差。こしらえは朱磯草研出しの蝋色鞘。山坂吉兵衛の小透し鍔に、鮫皮萌黄糸の大菱巻の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》。目貫には銀の輪蝶《りんちょう》の御定紋。ちゃんと記録が御座りまする」
「ふむ、それに符合致す脇差を、浪人が所持するに相違無いな」
「左様に御座りまする」
「その金三郎と申す浪人の面体《めんてい》は」
「恐れ多い事ながら、御上に克似《そっくり》の箇所も御座りまする」
「ふむ――」
智慧出羽《ちえでわ》と云われた池田の名家老も、こう聴いてはハタと当惑せずにはいられなかった。
「それで御上にはなんと仰せあそばされた。御脇差を御直々に、侍女《こしもと》鶴江に御遣わしの御覚え、あらせられるか、あらせられぬか、何んと仰せあそばされた」
「どうも覚えは無い……との御言葉」
「ふむ、その御言葉は、濁っていたか。澄んでいたか」
「何ともそこは、拙者には……」
「いや、大事なところじゃ、構わず御身の見たままを云って見なされえ」
「憚《はばか》りなく申上げますれば、平時《いつも》の御上の御言葉とは少し御違いあるかに承わりました」
「それで、この事件を他の者には聴かさずと、この出羽に先ず相談せよと、こ
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