備前天一坊
江見水蔭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)徳川《とくがわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)将軍|吉宗《よしむね》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]
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一
徳川《とくがわ》八代の将軍|吉宗《よしむね》の時代(享保《きょうほう》十四年)その落胤《らくいん》と名乗って源氏坊《げんじぼう》天一が出た。世上過ってこれを大岡捌《おおおかさば》きの中に編入しているのは、素《もと》より取るに足らぬけれど、それよりもズッと前、七十余年も遡《さかのぼ》って万治《まんじ》三年の頃に備前の太守|池田新太郎少将光政《いけだしんたろうしょうしょうみつまさ》の落胤と名乗って、岡山《おかやま》の城下へ乗込んだ浪人の一組があった。この方が落胤騒動としては先口で、云って見れば天一坊の元祖に当る訳。
大名の内幕は随分ダラケたもので、侍女《こしもと》下婢《はしため》に馴染《なじ》んでは幾人も子を産ませる。そんな事は決して珍らしくはなかったので、又この時代としては、血統相続という問題の為に、或は結婚政略の便宜の為に、子供は多い程結構なので、強《あなが》ち現今の倫理道徳を以て標準とすべきでは無いのであるが、しかし、なんにしても国守大名が私生児の濫造という事は、決して感心した事件ではないのである。
ところが、問題の人が明君の誉高き池田新太郎少将光政で、徳川|家康《いえやす》の外孫の格。将軍家に取っては甚だ煙ッたい人。夙《つと》に聖賢の道に志ざし、常に文武の教に励み、熊沢蕃山《くまざわばんざん》その他を顧問にして、藩政の改革に努め、淫祠《いんし》を毀《こぼ》ち、学黌《がくこう》を設け、領内にて遊女稼業まかりならぬ。芝居興行禁制とまで、堅く出ていた人格者。それに秘密の御落胤というのであるから、初めてこの物語が生きるのである。
「なる程、備前岡山は中国での京の都。名もそのままの東山《ひがしやま》あり。この朝日川《あさひがわ》が恰度《ちょうど》加茂川《かもがわ》。京橋《きょうばし》が四条《しじょう》の大橋《おおはし》という見立じゃな」
西中島《にしなかじま》の大川に臨む旅籠屋《はたごや》半田屋九兵衛《はんだやくへえ》の奥二階。欄干《てすり》に凭《もた》れて朝日川の水の流れを眺めている若侍の一人が口を切った。
「どうもこうした景色の好い場所に茶屋小屋の無いというは不自由至極。差当りこの家《うち》などは宿屋など致さずして、遊女|数多《あまた》召抱えるか、さもなくば料理仕出しの他に酌人ども大勢置いて、大浮かれに人の心を浮かした方が好かりそうなもの」
同伴の色の黒い、これは浪人体のが、それに次いで口を開いた。
「これ、滅多な事を申されな」
それを制止したのは分別あるらしき四十年配の総髪頭。被服から見ても医者という事が知れるのであった。
「かの伊賀越《いがごえ》の敵討、その起因《おこり》は当国で御座った。それやこれやで、鳥取《とっとり》の池田家と、岡山の池田家と御転封《ごてんぽう》に相成り、少将様こちらの御城に御移りから、家中に文武の道を励まされ、諸民に勤倹の法を説かせられて、第一に遊女屋は御禁制《ごきんぜい》じゃ。いや、この家も以前には浮かれ女を数多召抱えて、夕《ゆうべ》に源氏の公《きみ》を迎え、旦《あした》に平氏の殿を送られたものじゃが、今ではただの旅人宿《りょじんやど》。出て来る給仕の女とても、山猿がただ衣服《きもの》を着用したばかりでのう」と説明の委《くわ》しいのは既にこの土地に馴染の証拠。
「したが、女中は山猿でも、当家の娘は竜宮の乙姫が世話に砕けたという尤物《いつぶつ》。京大阪にもちょっとあれだけの美人は御座るまいて」と黒い浪人は声を潜《ひそ》めながらもニコニコ顔で弁じ立てた。
「や、駒越氏《こまごえうじ》には、もう見付られたか。余の儀は知らず女に掛けては恐しく眼の利く御人でがな」と総髪の人は苦笑《にがわらい》を禁じ得なかった。
「何はしかれ、先ず酒に致そう」と色の黒いのが向き直った。
「いや、その前に、当家の主人《あるじ》を呼出して、内意を漏らしてはいかがで御座りましょう」と総髪のがちょっと分別顔をした。
「なる程、俊良《しゅんりょう》殿の云われる通り、それが宜《よろ》しかろう」と若侍は賛成した。
早速呼出された当家の主人半田屋九兵衛。これが土地での欲張り者。儲《もう》かる話なら聴くだけでも結構という流儀。その代り損卦《そんけ》の相談には忽ち聾《つんぼ》になって、トンチンカンの挨拶《あいさつ》で誤魔化すという。これもしかし当時
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