されぬのであった。
 秋には近いがまだ却々《なかなか》に暑かった。奥二階で駒越左内奥野俊良の二人と、朝日川の鮎《あゆ》を肴《さかな》に散々酒を過した金三郎。独り離れの隠居所にと戻った。蚊いぶしの煙が早や衰えていた。
 ここへ母親お幸に突きやられて、娘のお綾が蚊帳を吊りに来た。
「おう、お綾。蚊帳を今から吊られては暑苦しゅうてどうもならぬ。まァまァそれよりも話して行ったが好い。今宵は又しても風が少しも無い。眠うなるまではここにいて、相手してくれやらぬか」
「はい」
 逃げ出そうとすれば庭木戸の傍に母親が隠れて頑張っている筈。それを突破して逃げる程のそれだけの勇気も出せぬので、お綾は縁側に手を支《つ》いたまま、モジモジして控えるのであった。
「まァ、何をその様に遠慮しているのじゃ。拙者は近く御当家に御召抱えと相成る身。さすれば早速又家内を迎えねば相成らぬで、それには誰彼と云おうより、お前に来て貰いたい真実の心」
「あれ、勿体ない。宿屋風情の娘が、御身分の御方様に……」
「いやいや、それは仮親を立てる法もある。まァその様な事を申さずと、嫁入り支度に就て、もっとも打解けて語り合おうではないか。さァ、さァ近く……はて、恐しい蚊の群じゃ」
 立って金三郎は撫川団扇《なつかわうちわ》バタバタと遣い散らし、軒の燈籠《とうろう》の火を先ず消した。次いで座敷の行燈《あんどん》の火も消した。庭の石燈籠の火のみが微かにこちらを照らすのであった。
「御免なされませ」
「はて、まだ好いではないか。もう少し話相手していてほしい」
 折も折とて京橋の東袂《ひがしたもと》近き所にて、屋島の謡曲《うたい》の声。それぞ源之丞のおとずれとお綾の心はそちらにも取られた。
 母親のお幸は、灯火の消えたので、安心して、店の方へ引下った。
 この時、忽ち隠居所の中で。
「あれ――」という悲鳴。それはお綾の口からであった。
 続いて金三郎の甲走った声で。
「曲漢《くせもの》ッ」と呼《よば》わった。
「御免下さりませ。つい暗いので部屋を取違えて」と聴き馴《な》れぬ女の声が、室の一隅で起った時に、悲鳴に驚いて店の方からお幸が手燭を点けて急いで来た。
 その光で見ると、白麻の衣《きぬ》に黒絽《くろろ》の腰法衣《こしごろも》。年の頃四十一二の比丘尼《びくに》一人。肉ゆたかに艶々《つやつや》しい顔の色。それが眼の光を険《けわ》しくしているのであった。
「おう、お前様は晩方お泊りの尼さんでは御座んせぬか。あなたのお部屋は表二階。それがいかに暗闇《くらやみ》とは云いながら、間違えるのに事を欠いて、離れ座敷のここへは?」とお幸は不審を打たずにはいられなかった。
「いや、庭内に稲荷の御祠《みほこら》があると女中殿から聴いて、ちょっとお参りの為に」
 尼さんでも稲荷信心。これは為《せ》ぬ事とも云われぬので、お幸はそれもそうかと思わぬでもなかったが、しかし、又何となく合点の行かぬ節ありと見ぬでもなかった。
 第一その金三郎の顔色が一通りではないのであった。まるで死人のそれの如く真蒼《まっさお》に変じているのからして、何か事情のあるらしく考えられた。
 尼は初めて気が着いたらしく。
「これはこれは。どなた様かと存じましたら、あなたは小笠原金三郎様では御座りませぬか。変った土地でお目に掛りまする」
「おう、智栄尼《ちえいに》で御座ったか」
「不思議な御対面で御座りまするな」
「左、左様で御座る」
 これは様子が変だと思ったから、お幸はお綾を促がして、ここを引下った。そうして植籠《うえこみ》の蔭で蚊に螫《さ》されるのを忍びながら、立聴きするを怠らなかった。
 この間《ま》にお綾は裏口から河原へ出た。そこには野末源之丞が待兼ねていた。

       五

 誰も他にいなくなった離れ座敷では、忽ち形勢が一変した。金三郎の胸倉を取って智栄尼は小突き始めた。
 金三郎は両手を合せて拝み拝み。
「まァ密《ひそ》かに。荒立ては万事が破滅、密かに……頼む……これ、後生じゃ、頼む」
「いや頼まれぬ。破滅しても構わぬ。いや、破滅の方が却って拙尼《せつに》には幸いじゃ。この悪性男。拙尼が虎の子の様にしている貯えの金三百両引出して、これが支度金で出世が出来ると備前の太守の御落胤を売物にして、三人での旅立。それは確かな証拠もある事ゆえに、それに相違はなかろうけれど、出世したところでこの家の娘を嫁に引取る料簡《りょうけん》では、拙尼の方が丸潰れじゃ。御取立に預った上は、必らず後から呼び迎えるという、あれ程堅く約束をして置きながら、浮気するとは何事ぞい。こうした事もあろうかと、拙尼も天王寺《てんのうじ》の庵室にジッとしてはいられず、後から尾《つ》けて来て見れば、推諒《すいりょう》通りこの始末じゃ。もう三百両の金無駄にされても好い
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング