《よ》りに行ったのですよ。それをまあ何事です」
 お鉄は涙含《なみだぐ》んでさえいるので有った。
 竜次郎は斯うして縛り放しにされている意気地無さ。我と吾身に愛想の尽きるので有った。之も皆師に叛《そむ》いた罰だ。堕落した為だ。然《そ》ういう風に悔いながら、
「姉御、どうか許して呉れ。如何《どう》しても一度江戸へ行って来ねば相成らぬで」
「草深い田舎に飽いてで御座んすか。いや、私という者に愛想が尽きて、お逃げ出しで御座んすかよ」
「決して左様な訳ではない。行って見て、安心したら直ぐ帰る。実は毎夜の夢見、どうも心配で心配で耐え難いで」
「夢見?」
「夢は五臓のつかれとやら。そう云って了えばそれ迄だが、余りに一つ夢を何度も何度も繰返すので気に懸って相成らぬ。それは恩師秋岡陣風斎先生が瀕死の重態。されば先生には誰一人身寄りが無い。看病する者が居らぬ筈。孤独の御生活《おくらし》、殊に偏屈という御性癖で、弟子というても斯くいう竜次郎より他には持たれぬのだ。それが一師一弟の特別の稽古、その八方巻雲の秘伝をお授け下さるという事は、いつぞや姉御にも話して置いた」
「それは確かに聴きました」
「万一先生、
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