御他界の間に合わぬ時は、折角の秘伝は消滅して、残念ながら此世には遺《のこ》り申さぬ。それが如何《いか》にも惜しゅうて成らぬ。や、それは又それとしても、義理人情の薄う成り過ぎた此頃、恩師を唯一人のたれ死も同然にさせたと有っては、磯貝竜次郎の一分が立たぬ。師弟の間柄が宛如《さながら》商売取引のように成ったのを、悉く不満に存じ居る折柄、是非先生の御看病を……」
「先生は本統に御病気なのですかえ」
「それは分らぬ。併し毎夜の如く続けて夢に見る。如何《どう》も気に成って耐え難い。どうか姉御、一度江戸へ遣《や》って貰いたい。いや江戸へ帰らして呉れとは云わぬ。行かして呉れ。先生御無事ならば、直様《すぐさま》此方《こちら》へ帰って来る。もし正夢で御病気ならば、御看病申上げて、其後は屹《きっ》と帰る。金打《きんちょう》致して誓い申す」
 真心は竜次郎の眼に涙と成って浮ぶので有った。これには生縄お鉄も感動せずにはいられなかった。人間の至誠が完全に表現されるのは、必ずしも多弁を要しないので有った。
「そんな事なら何も私にだんまりで、裏から逃げ出さなくっても好いでは有りませんか。私だって普通《ただ》の女では無
前へ 次へ
全36ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング