は急に心づいた様子で、
「や、御武家様、私に限らず今夜はもうとてもこの宿《しゅく》へは泊れません、どこも一杯です。それで私は布田《ふだ》までのして置きまする。へえ、甲州へ絹を仕入れに行った帰りでございます。御免下さいまし」
 勘定を済ましてせっせと先に行ってしまった。源八郎はその旅商人を、どうも怪しいと睨《にら》まずにはいられなかった。
 道中の胡麻《ごま》の灰《はい》形の男にも見えた。あるいは又すり[#「すり」に傍点]稼ぎのために入込んだ者のようにも思われた。あいつが仕事のついでに、悪戯《いたずら》をして廻るのではあるまいか。そんな疑念をも生じたのであった。
 すり[#「すり」に傍点]は一種特異の刃物を掌中に持っている。それで巾着《きんちゃく》を切ることもあり、仕事の邪魔をした者に復讐的に顔面を傷つけるという話は聴いている。あの旅商人が巾着切とすれば、どうも鼻そぎ臀切りの犯人が、あいつのように思われてならぬのであった。
 あいつ真《しん》に甲州へ絹の仕入れに行き、江戸へ帰るべく今夜布田に泊る者とすれば、もうこの土地に姿を見せぬはず。もしあいつが暗闇の前後に、まだ府中の土地を踏んでいる
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