ろう」
 六浦琴之丞、起上って極り悪るそうに、帆の下から顔を出して。
「えらい夕立だッたね」
 こちらの二人は顔を見合せて。
「まア好かッた。しかし、顔色がお悪いね。未だ御腹痛かも知れない」
「腹痛に雷鳴に女船頭、三題|噺《ばなし》ですね」と囁《ささや》き合った。

       七

 秋晴の気も爽やかなる日に、羽田要島の弁天社内、例の茶店へ入来《いりきた》ったのは、俳諧の宗匠、一水舎半丘《いっすいしゃはんきゅう》。
「お嬶《かみ》さん、いつぞやは世話になった」と裾の塵を払いながら、床几《しょうぎ》に腰を掛けた。
「おや、今日は御一人で御座いますか。この夏には余分にお茶代を頂きまして……」と嬶さんは世辞《せじ》が好い。
「や、お嬶さん、今日は一人で来たけれど、お茶代はズッと張込むよ。小判一枚、投げ出すよ」
「へへへへ、どうか沢山お置き下さいまし」
「いや、冗談じゃア無い、真剣なんだ。その代り悉皆《すっかり》こっちの味方になって、大働きに働いて貰わなければならないんだがね」
「へえ、お宝になる事なら、どんなにでも働きます」
「実は、例の羽田の弁天娘、女船頭のお玉に就いてな」
「分りましたよ。どうもそんな事だろうとこの間|内《うち》から察しておりましたよ。お玉坊がブラブラ病。時々それでも私のところへだけは出て来ましてね。この間の御武家様は、未だ入らッしゃらないかッて、私を責めるんですから困って了います」
「お玉坊がブラブラ病とは不思議だね。実はこちらでも若殿がブラブラ病。ブラとブラとの鉢合せでは提灯屋《ちょうちんや》の店へ颶風《はやて》が吹込んだ様なものだ」
「なんですか知りませんが、あれは本物で御座いますよ。初めて男の優しさを知ったので御座いますからね。でもお玉が惚《ほ》れるのも道理で御座いますよ。あんな立派な殿様は、羽田の漁師町にはありませんからね」
「それは無いに極っている」
「似合の二人、どうにかして夫婦にして遣りたいと思いますが、何分にも身分が身分ですからね」
「それなんだ。そこがどうにも行悩みだが、御隠居《ごいんきょ》奥様も大層《たいそう》物のお分りになった方だし、御親類内にも捌《さば》けた方が多いので、そんな訳なら、とにかく、屋敷へ呼寄せたい。母親の生活《くらし》は又どうにでもしてやると、親元には相当の人を立て、そこから改めて嫁入り……と、まア、そこまで行かない分が、二千八百石御旗本の御側女《おそばめ》になら、今日が今日にでも成られるので、支度料の二百両、重いけれど愚庵は、これ、ここに入れて来ているのだがね」
「それはどうも有難う御座います」
「待ってくれ、礼には早い」
「左様ですか」
「若い同士二人でモヤモヤしている間《うち》は、顔が美しくッて、気立が優しくッて、他に浮気もせず、殿を大事にさえしておれば、好いに相違無いが、いずれは二人の間に、子宝が出来ると考えなければならない」
「それはそうで御座いますよ。あの娘は、六人や七人は大丈夫産みますね」
「その時にだ、能《よ》くある奴《やつ》、元の身分を洗って見ると、一件だッてね」
「一件?」
「一件で無いにしたところで、癩病《なりんぼう》の筋なんか全く困る」
「それはそうで御座いますねえ」
「どうも世継の若様が眉毛が無くッては、二千八百石は譲られない」
 家の相続、系統上の心配は、現代の我々が想像出来ない程昔は苦労にしたもので、断家《だんけ》という事は非常に恐れていた時代だから、血統に注意するのは無理では無かった。
「そこで、念には念を入れて、身元を洗って来てくれ。これは金銭に換えられぬ家の一大事だからと、御隠居奥様から、入用として別に頂いて来ているので、それを残らずお前に上げては、愚庵も困る。そこで、お嬶さん、何もかも打明けての話なんだ。お前を味方と抱き込んでの話なんだ」
「へえへえ、いくらでも抱き込まれますよ」
「そんなに傍へ寄って来なくッても好い。そこでお嬶さん、愚庵の立前《たちまえ》を引いて、お前さんに、小判で十両上げよう」
「小判十両! 結構で御座います」
「まアお待ちよ。この十両はだね、この十両は巧く話が纏《まと》まったら、御礼として上げるのだよ」
「だと、話が纏まらない時は、頂け無いのですか」
「そこだよ。愚庵も江戸ッ子だ。話がバレたとしても十両上げるよ」
「だと、お玉坊の本統の身元を申上げて、それが為にバレになりましても、十両……」
「その代り、話が纏まっても十両、どっちへ転んでも十両で、お前に損は無いのだから、本統の事さえ教えて貰えば好いのだよ。嘘偽《うそいつわ》りを教えられたのでは後日になって、愚庵が申分けが無い。申分けが無いとなると、切腹するより他には無いのだが、同じ死ぬのならお前のドテッ腹へ風穴を穿《あ》けて、屍骸が痩《や》せるまで血を流さした上で、覚悟をする」
「いえ、正直のところを申しますよ。決して嘘偽りは申しません。本統の事を申しますよ」

       八

「さア、それでは、小判で十枚……その代り茶代に一両置くと云ったのは取消すよ」と一水舎半丘、なかなかズルイ。
「ええ、もう沢山で御座います。十両の金は我々に取っては大変な物で御座いますよ。早速|亭主《うち》の野郎に見せて腰を抜かさして遣ります」と嬶さんは急いで小判を納《しま》い出した。
「そこでどうだい、一件の家筋、非人の家筋という心配は無いかね」
「そんな事は御座いませんよ。一件でも非人でも、そんな気は些《ちっ》ともありませんから、その方は請合《うけあい》ます」
「やれ、それで一安心。そこで、肝腎の血の筋だ。癩病《なりんぼう》の方はどうだね」
「その方は大丈夫です。あの家には昔から悪い病のあったという事を聞きません。あの家に限らず羽田には、そんな血筋は無い様で……私だッて大丈夫で」
「分った分った、それならもう心配する事は無い」
「それがね、ただ一ツ御座いましてね。いえ、隠しても直ぐ分る事で御座いますから、あの娘に取ってはまことに気の毒ですが、余り知れ切った話ですからね、申しますがね」
「ふむ、なんだい、どんな曰《いわ》くが有るんだね」
「あの娘の父親《てておや》は、名代の海賊で御座いました」
「えッ、海賊?」
「竜神松五郎《りゅうじんまつごろう》と云って、遠州灘《えんしゅうなだ》から相模灘《さがみなだ》、江戸の海へも乗り廻して、大きな仕事をしていましたよ」
「おう、竜神松五郎と云ったら、和蘭船《おらんだぶね》の帆の張り方を知って、どんな逆の風でも船を走らして、出没自在の海賊の棟梁《とうりょう》、なんでも八丈島《はちじょうじま》沖の無人島で、黒船と取引もしていたッてえ、あ、あ、あの松五郎の娘……あの松五郎の娘が、お玉だッたか」
「それで御座いますよ。その松五郎も運の尽きで、二百十日の夜に浦賀《うらが》の船番所の前を乗切る時、莨《たばこ》の火を見られて、船が通ると感附かれて、木更津沖で追詰められて、到頭子分達は召捕りになりましたが、松五郎ばかりは五十貫もある異国の大|錨《いかり》を身に巻附けて、海へ飛込んで死んで了いましたので、未だその他に同累《どうるい》も御座いましたのですが、それはお調べにならないで了ったそうで……」
「竜神松五郎の娘。嗚呼《ああ》、あのお玉が海賊の娘かい……どうもこれは飛んでも無い事が出来て了った」
「ねえ、先生、それはそうで御座いますが、どうにかそこがならない者で御座いましょうか。父親《てておや》は海賊でも、母親は善人で御座いましてね、それにあの通り娘は出来が好いので御座いますから、これは私の慾得《よくとく》を離れて、どうにか纏めて遣りたいもので御座いますが……」
「それがどうもそう行かない。や、行かない訳が有るんだ。なるべくなら愚庵も纏めて遺りたい。又六浦家の方でも、ナニ海賊なら大仕掛で、同じ泥棒でも好いよと、マサカ仰有《おっしゃ》りもしないが、そう仰有ったところで、娘の方で承知出来ない」
「へえ、それはどういう訳で御座いますか」
「その海賊竜神松五郎を退治《たいじ》た浦賀奉行は、六浦の御先代、和泉守友純《いずみのかみともずみ》様だ」
「えッ」
「琴之丞様の父上が御指揮で、海賊船を木更津沖まで追詰めて、竜神松五郎に自滅をおさせなさったので、それが為に五百石の御加増まで頂いていらッしゃるので、お玉の父の敵は琴之丞様の御父上、敵同士の悪縁だから、纏まりッこは無い」
「なる程、それじゃア夫婦にはなれませんや」
 悪縁というのは正しくこれだ。今の若い人の考えで見ると、恋愛は神聖だ。親と親とが、どんな関係だろうが、子は子で又別の者だ。互いに愛し合っているのに不思議は無い。早速自由結婚をしよう、戸籍面なんかどうでも好いという風に、ドシドシ新解釈で運んで了うが、天保時代にはとてもそうは行かなかった。
 金儲けになる事だから、どうにかして纏めたいと考えたのだが、こればかりはどうにもならぬので、宗匠と茶店の嬶さんと顔を見合せて、溜息を吐《つ》くばかり。
 此時、葭簀《よしず》の陰で、不意に女の泣声がした。喫驚《びっくり》して見ると、それはお玉。
「まアお玉さん、聴いていたかい。まア能く三人で相談を仕直すから、こちらへお出《い》で」と、嬶さんが云うのも肯《き》かず、そのまま走り出した。
「や、飛んだ事になったね。早く行って留めなければ身を投げて死ぬかも知れないね」と半丘も顔色を変えた。
「なに、泳ぎが出来るから、身は投げませんよ。投げても浮いて死なれやアしません」
 これは道理《もっとも》だ。

       九

 一水舎半丘の報告は、どの位琴之丞をして失望せしめたか分らなかった。病気は益々悪くなって来た。六浦家の後室《こうしつ》始め、一門の心配は一通《ひととお》りではなくなった。
「どうも半丘宗匠の取調べが物足りねえ様に私は考えます。なる程お玉という娘の父親は竜神松五郎という海賊かも知れませんが、そんな奴には種々《いろいろ》又|魂胆《こんたん》がありまして、人の知らねえ機関《からくり》も御座いますから、再調《さいしら》べの役目を私奴《わたくしめ》にお云附《いいつ》け下せえまし」と中間市助が願い出た。
「なる程、それはそうだ。ではも一度調べて見てくれないか」
 こいつも運動費をウンと貰って、飛出して行った。他へは行こう筈がない。矢張《やはり》弁天社内の茶店であった。
「おや入《い》らッしゃいまし。どうも飛んだ事で御座いましたねえ」と嬶《かみ》さん未だに以て、ガッカリしていた。
「お嬶さん、今度は私が調べに来たんだ。礼はウンと出すよ。宗匠は何程出したか知らねえが、この市助はケチな上前なんか跳ねやアしねえ。五十両出すよ、五十両」
「それがねえ、五十両が百両お出しになりましても、いけないので御座いますよ」
「いけねえのは分っているが、そこを活《い》かすのが市助の智謀なんだ。お前にしろ、宗匠にしろ、正直だからいけねえのだ。俺に法を書かせるとこういう筋にするんだ。好いかい、先ず羽田で一番慾張りで年を取った者を味方に附けるんだ。その年寄にお玉の素姓を問合せて見たところが、その年寄の云うのには、あれは松五郎の実の娘では御座いません。これには一条の物語が御座いますと云わせるんだ」
「ああそんな役廻りなら、宅の隠居をお遣い下さいまし。慾張りでは羽田一番ですから」
「そこで、その一条の物語というのを書卸すのだがね。竜神松五郎が房州沖で、江戸へ行く客船を脅《おびや》かして、乗組《のりくみ》残らず叩殺《たたきころ》したが、中に未だ産れ立の赤ン坊がいた。松五郎の様な悪人でも、ちょうど自分の女房が産をする頃なので、まア、それに引かされて連れて帰って見ると、自分の子は死んで産れたところで……これこそ虫が知らせたので、ちょうど好い。産婦に血を上《あが》らしてはいけねえと、連れて来た赤ン坊を今産れたと偽る様に産婆と腹を合せてその場を繕《つくろ》ったのが今のお玉。実のお母親《ふくろ》の気でいても全くは他人、この魂胆を知っているのは松五郎の生前に聴いた俺《おれ》ばかりだ……とお前のところの隠居に
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