はとかく形式的となって、人を感動せしむる力のないというのは、宗教的情操の欠乏にある。しからば仏教とかクリスト教とか、かかる宗教を教育に応用すべきかといえば、特殊関係の学校は別として、普通の学校に特殊の歴史的宗教を入るれば必ず偏頗《へんぱ》となって混乱を来たす。学生生徒のすべてが仏教徒に限ってもいなく、またクリスト教徒に限ってもいない。神道側の者もあれば無宗教の者もないではない。かように複雑である。それで特殊な宗教を超絶した一般的普遍的の宗教をもってするでなければならぬ。そのような宗教は倫理教よりほかはない次第である。教育はこの点において大いに改造さるべき余地がある次第である。
 教育は人格を陶冶《とうや》する方法であるが、人格を陶冶するにはその被教育者の投ぜられたる特殊の境遇事情に適応することを必要とするのである。それゆえにわが国の子弟を教育するにただちにわが国と境遇事情を異にする欧米の方法をもってすべきではない。わが国においてはどこまでも伝統的の日本精神をもって指導原理として教育を施さねばならぬ。ただし欧米の方法は慎重に取捨してこれをおのれに資することを期すべきである。

   七 
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