。河の上にあって、近所の建物からかなり遠く離れていて、それでどうしてこんなにひどく焼かれたか不思議なようである。これはもちろん、避難者の荷物が豊富な焚付《たきつ》けを供給したためである。火災後、橋々の上には、箪笥《たんす》やカバンの金具が一面にちらばっていたのでも、おおよそ想像が出来る。
 永くこの経験と教訓を忘れないために、主な橋々に、この焼けこぼれた石の柱や板の一部を保存し、その脇に、銅版にでも、その由来を刻したものを張り付けておきたいような気がする。
 徳川時代に、大火の後ごとに幕府から出した色々の禁令や心得が、半分でも今の市民の頭に保存されていたら、去年のあの大火は、おそらくあれほどにならなかったに相違ない。
 江戸の文化は、日本の文化の一つである。馬鹿にすると罰が当る。

         十四

 大正十二年のような地震が、いつかは、おそらく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である。その日が来た時に、東京はどうなるだろう。おそらく今度と同じか、むしろもっと甚だしい災害に襲われそうである。被服廠跡《ひふくしょう
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