四五句目に現われる場合もはなはだ多い。上の例では「ほろほろ」から四句目に「だんだんに」が来る。同じ百韻中で調べてみると前のほうにある「とろとろ」はだいぶ離れているが、ずっとあとに来る「ほやほや」と「うそうそ」とは五句目に当たる。『そらまめの花』の巻の「すたすた」と「そよそよ」は四句目に当たる。『梅が香』の巻の「ところどころ」と「はらはら」も四句目である。もちろんこれには規約的な条件も支配していると思われるが、心理的にこれらの口調が互いに相吸引していることは争われない。これはおそらく統計学的にも証明し得られるであろうと思う。
 数字と数字との連想も半ば内容的であるが半ばは音調的の口移りから呼び出されるらしい。たとえば『そらまめの花』の巻には「七夕《たなばた》」の七の字があるだけで本来の「数字」は一つもないのに、『八九間』の巻には「小鳥一さけ」にすぐ続いて「十里あまり」が来る。『振り売りの』の巻にある「二十八日」から八句目に「七つさがり」があり、すぐ続いて「五十石取り」があり、ずっと離れて「四つのかね」と「三月」がある。その他『鉄砲の遠音』の巻に「なまぬる一つ」と「碁いさかい二人」と続くような例ははなはだ多い。もちろんこれに関しても何かの規約はあったかもしれないが本来は心理的の立場から説明さるべき現象である。
 以上は主として前句と後句の間の関係だけについての考察であったが、三句目四句目等に及ぼす連想の影響についても考うべき事ははなはだ多い。
 遺伝に関してアタヴィズムの現象があるように、連句の連続においてもある一句がその前句よりもいっそう前々句に似たがる傾向がある。いわゆる打ち越しに膠着《こうちゃく》し、観音開きとなって三句がトリプチコンを形成するようになりたがるものである。これはもとより当然のことである。前句の世界と前々句の世界とは部分的にオーヴァーラップしており、前句と後句ともまた部分的に重合しているのであるから単にプロバビリティーから言ってもそうなりやすいのみならず、まだその上にいっそうそうなりたがる心理がある。それは前々句と前句との付け合わせを「味わう」ことによってこの前二句の重合部が特別に後句作者の頭の中に大きくはびこってしまって、前句の世界を見ているつもりでも実はその重合部だけに目を引かれることになるからである。それでこのような打ち越しの危険を避けるために
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