の階梯《かいてい》として洗練に洗練を重ねた上で付け句ができあがるべきはずである。
 そういう階段としてはその連想がいかに突飛であってもそれはなんのさしつかえもない、最後の成果がよければよいのである。たとえば「雪の跡吹きはがしたるおぼろ月」の前句を見てふいと「蒲団《ふとん》」という心像が現われたとしても、だれがそれをとがめうるものがあろうか、まただれがその心像の由来の合理的説明を要求するであろうか。その連想の底に雪雲と蒲団との外形的連想がありあるいは「はがす」という言葉が蒲団を呼び出したとしてもそれは作者の罪ではない。ともかくもその突然な「蒲団」の心像を踏段として「蒲団丸げてものおもい居る」という句ができあがってしまえば、もはやそんな連想は必ずしも問題にしなくてよい。読者にとってはむしろ問題にしないほうがよいのであろう。そうして単に雪後の春月に対して物思う姿の余情を味わえば足りるであろう。
 連想には上記のように内容から来るもののほかにまた単なる音調から来る連想あるいは共鳴といったような現象がしばしばある。これはわれわれ連句するものの日常経験するところである。全く無意識に前句または前々句等の口調が出て来たがるので当惑することがしばしばある。これらは多くの場合直ちに訂正されるからできあがったものには痕跡《こんせき》を現わさないはずであるが、それでも時には見のがされた残滓《ざんし》らしいものが古人の連句にもしばしば見いだされる。たとえば前掲の「ふとん」の次に「不届」「はっち」と三つのFTの結合が現われている。「けんかく」の次に「こまかく」が来たりするのも必ずしも偶然とは思われない。もうすこし不明瞭《ふめいりょう》なのでは「か[#「か」に白丸傍点]えるやら[#「ら」に白丸傍点]山陰伝う四十から[#「から」に白丸傍点]」の次に「むねをから[#「から」に白丸傍点]げる」があり、「だだくさ[#「だだくさ」に白丸傍点]」の次に「いただく[#「いただく」に白丸傍点]」があり、「いさぎよき」の次に「よき社」がありするのも同様である。こういう無意識の口移りは付け句には警戒されたのが三句目四句目にうっかり頭をもたげる例も少なくない。
 同様な部類に属するのは「ほかほかと……いぼいいで」に次いで「ほろほろ……こぼるる」の来るような擬音的重畳形容詞の連続する例である。これは連続する場合もあり、
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