き尽くされているであろうと思う。しかし心理学的連想の実例を捜している一学究としてあらゆる芸術的の立場を離れて見たやぶにらみの目には、灰汁のしずくと油のしたたりとの物理的肖似がすぐに一つの問題の焦点となるであろう。また灰汁のしずくが次第にその流量を減じてとうとう出なくなってしまう、その量対時間関係が「油かすりて」欠乏する感じに照応するのである。これは鑑賞的には全くいわゆる「うがち過ぎ」た無用の詮議立《せんぎだ》てに相違ないのであるが、心理学的には見のがすことのできない問題である。従って創作心理の研究者にとっては少なくもひとまずは取り上げて精査してみなければならない問題である。「あぶらかすりて」の次に「新畳《あらだたみ》敷きならしたる月影に」の句がある。ここでも月下の新畳と視感ないし触感的な立場から見て油との連想的関係があるかないかという問題も起こし得られなくはない。これはあまり明瞭《めいりょう》でないが「かますご食えば風かおる」の次に「蛭《ひる》の口処《くちど》をかきて気味よき」の来るのなどは、感官的連想からの説明が容易である。
二つのものの感じの共通というのでなくて、二つのものの外面的関係から呼び出される連想としては「身はぬれ紙の取り所なき」に対する「小刀の蛤刃《はまぐりば》なる細工箱」のごときがそれである。ぬれ紙が小刀を呼び出したのである。もちろん芸術的の価値は全く別問題である。
物質から来る連想の例では「居風呂《すえふろ》の屋根」「椴《とど》と檜《ひのき》」「赤い小宮」と三つ続くようなのがある。
「干葉《ひば》のゆで汁《じる》悪くさし」「掃けば跡から檀《まゆみ》ちるなり」「じじめきの中でより出するり頬赤《ほあか》」の三句には感官的に共通な連想があるのみならず、空間的排列様式の類似から来る連想がある。「生きながら直《すぐ》に打ちこむひしこ漬《づけ》」「椋《むく》の実落ちる屋根くさるなり」なども全く同様な例である。こういう重複はもちろん歓迎されないものである。
こういう例はあげれば際限はない。そうしてこういう例として適当なものは、連句として必ずしも上乗なものではなく、むしろあまりよくないほうが多いかもしれない。それはむしろ当然である。連想で呼び出される第一影像はただ一つの可能な付け句の暗示に過ぎないので、それだけでは決して付け句は成立しない、この第一影像を一つ
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