を立てて考えなければ一連の連句を充分に分析し正当に理解することはできないであろう。
従来連句の評釈をしたものを見ても、この区別を判然と立てないためにいろいろの疑問が起こったり議論があったりする場合が多いように思われる。多くの場合に創作者の心理分析に傾いた評釈はいわゆる「うがち過ぎ」として擯斥《ひんせき》され、「さまでは言わずもがな」として敬遠されるようである。これは連句を単に鑑賞するだけの立場からはもっともなことであるが、連句というものをほんとうに研究するには不都合な態度である。のみならず自分で連句の創作に手をつけるものにとっては、この点の研究が最もたいせつなものと私には考えられるのである。そればかりか、鑑賞のみの目的でも真に奥底まで入り込んで鑑賞をほしいままにするためには、一度はこの創作心理のミステリーに触れることが必要であろうと思われるのである。われわれは「うがち過ぎ」をこわがらないで「言わずもがな」をけ飛ばして勇敢に創作心理の虎穴《こけつ》に乗り込んでみなければならない。しかしこれはなかなか容易な仕事ではない、一朝一夕に一人や二人の力でできうる見込みはない。そうかと言っていつまでも手をつけずにおくべきものでもない。たとえわれわれの微力ではこの虎穴の入り口でたおれてしまうとしたところでやむを得ないであろう。
創作心理の上から見てすぐに問題になるのは、連想作用のことである。連句制作の機構の第一要素が連想であることは言うまでもない。しかしこの連想による甲乙二つの対象は決して簡単な論理的または事件的の連絡をもっているものではなくて、たとえば前条に述べた夢の中の二つの物のつながりのように複雑不可思議な糸によってつながっているのである。夢の中ではたとえば蝋燭《ろうそく》やあるいはまたじめじめした地下の坑道が性的の象徴となる場合がある。またこれに相当する例は芭蕉初期時代の連句には往々ある。また重いものをかついで山道を登る夢が情婦とのめんどうな交渉の影像として現われることもある。古来の連句の中でもそういう不思議な場合の例を捜せばおそらくいくらでも見つかるであろうという事は、自分自身の貧弱な体験からも想像されることである。
「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」「あぶらかすりて宵寝《よいね》する秋」という一連がある。これに関する評釈はおそらく今までに言い尽くされ書
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