は、作者は前句によってよび起こされた観念世界の中でどれだけの部分が前の句のそれと重合しているかを認識した上で、きれいさっぱりそれだけを切り抜いて捨ててしまわなければならない。そうして残った部分の輪郭をだんだんに外側へ外側へと広げて行くうちに適当な目標が見つかるのである。
 以上述べたところからまたわれわれが連句修業の際しばしば遭遇する一つの顕著な現象を説明することができる。それは「前句が前々句に対して付き過ぎになっていると後句が非常に付けにくく、何をもって来ても打ち越しに響く」ということである。すなわち、上述の重合部が前句のほとんど全面積をおおっていて、切り捨てた残部があまりに僅少《きんしょう》になるためである。さて以上の心理から起こるアタヴィズム的傾向は連句の規約上厳重に抑制せられるから、少なくも完成した古人の連句集には原則としては現われないはずである。しかしこういう人間の本能的な傾向から起こって来る作用の効果はなかなか根強いものであって、そうそう容易に抑圧することはできないものである。それで一見したところでは毫《ごう》もこの規約に牴触《ていしょく》しない――少なくも論理的には牴触しないような立派な付け句であっても、心理的科学者の目から見ると明らかに打ち越しの深い影響を受けたと、少なくも疑われるものがあったとしてもなんの不思議はないわけである。
 試みに審美的のめがねをかなぐりすてて、一つの心理的なからくりの中の歯車や弾条《ばね》を点検するような無風流な科学者の態度で古人の連句をのぞいてみたらどうであろうか。まず前にも例示した『灰汁桶《あくおけ》』の巻を開いて見る。芭蕉の「あぶらかすりて」の次の次に去来の「ならべてうれし十の盃《さかずき》」が来るのである。ここで、いったい去来という人の頭の中に、ありとあらゆる天地万有のうちから、物もあろうに特に選ばれてこの「盃」というものの心像がどうしてまさにここに浮かび上がったかと考えてみなければならない。前句は新畳《あらだたみ》を敷いた座敷である、それを通して前々句を見るとそこには行燈《あんどん》があり、その中から油皿《あぶらざら》の心像がありありと目に見える。その皿が畳の上におりて来る、見ているうちにその油皿が盃に変わって来る。次に一つの盃がばらばらと分殖してそこに十個の皿がずらりと並列する。それに月光がさして忽然《こつぜん
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