ァイオリンで行くのと、それが反対になるのとでまるでちがった音楽になりうるのと似たことになるであろう。おそらく芭蕉は少なくも無意識にはこれらの事理に通暁していたではないかと想像される。そうして場合に応じて適当なる楽器編成を行なったのではないかと想像されるのである。
これは単に音楽と連句との仮想的対照によって私の得た一つの暗示に過ぎない。前にも断わっておいたとおりこのような比較対照は厳密な意味では本来無理であるのに、それにもかかわらずそれをあえてしたのは、これによって連句というものをなんらか新しい光のもとに見直し、それによって未来の連句への予想と暗示とを求めるための手段としてであった。その目的は以上の所説でいくらかは達せられたように思われるのである。たとえば、少なくも連句の共同作家の相異なるあまたの個性の融合統一ということが連句芸術の最重要な要素であるということがいくらか明瞭《めいりょう》にされたであろうと思う。従ってほんとうにすぐれた連句の制作の困難な理由もまた実にこの要素に係わっていることが想像されるであろうと思われる。そうしてこの困難に当面して立派なものを作り上げるには、単に句作にすぐれたメンバーがそろっただけでは不十分であって、どうしても芭蕉ほどの統率的人傑を要する理由もわかってくるであろう。
こういう点からまた私のここで仮想しているような連句の指揮者の地位はまた映画の監督の地位に相当するようである。いかによい役者やロケーションを使いいかに上手《じょうず》なカメラマンを使っても監督の腕が鈍くて材料のエディティングが拙ならば、一編の作品として見た映画はいわゆる興味索然たるものであるに相違ない。実際に芭蕉がいかなる程度までこの監督の役目をつとめたかについては私は何も知らないものである。これについてそれぞれ博学な考証家の穿鑿《せんさく》をまつ事ができれば幸いである。しかし私がここでこういう未熟で大胆な所説をのべることのおもな動機は、そういう学問的のものではなく、むしろただ一個の俳人としてのまた鑑賞家としての「未来の連句」への予想であり希望である。簡単に言えば、将来ここで想像した作曲者あるいは映画監督のようなリーダーがあちらこちらに現われて、そうしてその掌中の材料を自由に駆使して立派なまとまった楽曲的映画的な連句を作り上げるという制作過程が実行されたならばおもしろい
前へ
次へ
全44ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング