であろうということである。おもしろいというだけではなくて世界にまだ類例のない新しい芸術ができるであろうということである。この理想への一つの試験的の作業としては、たとえば三吟の場合であれば、その中の一人なりまた中立の他の一人なりが試験的の監督となりリーダーとなってその人が単に各句の季題や雑《ぞう》の塩梅《あんばい》を指定するのみならず、次の秋なら秋、恋なら恋の句をだれにやらせるかまでをも指定し、その上にもちろんできた句の採否もその人に一任するとして進行したらどうであろうか。これははなはだむつかしい試みには相違ない。そうしてその指揮者の頭がよほど幅員が大きく包容力が豊かでなければ、結局|狭隘《きょうあい》な独吟的になるか、さもなくばメンバーのほうでつまらなくておしまいまでやり切れないであろうと思われる。しかしともかくもこういう試みは未来の連句のためにわれわれの努力し刻苦して研究的に遂行してみる価値のある試みである。たとえ現在の微力なわれわれの試みは当然失敗に終わることが明らかであるまでも、われわれはみじめな醜骸《しゅうがい》をさらして塹壕《ざんごう》の埋め草になるに過ぎないまでも、これによって未来の連句への第一歩が踏み出されるのであったら、それはおそらく全くの徒労ではないであろうと信ずるのである。
[#地から3字上げ](昭和六年六月、渋柿)
四 連句の心理と夢の心理
連句の付け合いに関する心理的過程には普通文学における創作心理に比べてよほど特異なものがあるであろう、ということは初めから予期されることである。もしこれがしかるべき心理学者によって研究されればその結果はわれら連句の徒弟に対して興味があり有益であるというだけでなく、一般心理現象中で他の場合にはあまり現われないような特異な潜在的現象を追跡し研究するための一つの新しい道を啓示するような事にもなりはしないかと思われるのである。
私は心理学者でもなく、また連句の制作についてもきわめて乏しい体験しかもたないから、このような大問題に対してなんら解決のかぎを与えるような議論を提出する資格はないのであるが、試みに自分の浅い経験と知識を通してこの問題の一分野を瞥見《べっけん》したままの所見を述べてみることとする。
眼前に一つの長句なら長句が「与えられたる前句」として提供されている。私がその句をじっと見つめて
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