れてナポリの町をめぐり歩いた。
とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光|燦爛《さんらん》たる祭壇の蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた僧侶《そうりょ》が、格子越《こうしご》しに訴える信者の懺悔《ざんげ》を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら牢屋《ろうや》を思わせるような厳重な鉄の格子には、剛《かた》く冷たくとがった釘《くぎ》が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。
ここを出て馬車は狭い勾配《こうばい》の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。
停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。熔岩《ようがん》が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な泥土塗《どろつちぬ》りの田舎家《いなかや》もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。
馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑《ばれいしょばたけ》の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。
ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭《きてい》が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸《しがい》である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火山《えんすいかざん》が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。
狭い町は石畳になって、それに車の轍《わだち》が深い溝《みぞ》をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ※[#「金+嘯のつくり」、第3水準1−93−39]《さ》びて、あがった鰻《うなぎ》を思わせるような無気味な肌《はだ》をさらしてうねっていた。
富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。脱衣棚《だついだな》が日本の洗湯《せんとう》のそれと似ているのもおもしろかった。風呂《ふろ》にはいっては長椅子《ながいす》に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと昼寝《シエスタ》をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。
劇場《テアトロ》の中のまるい広場には、緑の草の毛氈《もうせん》の中に真紅の虞美人草《ぐびじんそう》が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると鳥頭《とりかぶと》の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や煉瓦《れんが》はぽろぽろになっているのに。
酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈《かまど》の跡や、粉をこねた臼《うす》のようなものもころがっていた。娼家《しょうか》の入り口の軒には大きな石の
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