河会社の円頂塔《キューポラ》は朝日に輝いていた。
地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入《びんい》りを買わされた。
四月三十日
朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。
午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。
ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、皿《さら》にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N. L. D. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……T氏と艙《ふなぐら》へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。
五月一日
午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷《うげん》の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木《かんぼく》だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて灯《ひ》の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。
九時ごろから喫煙室でN君ハース氏らと袂別《けつべつ》の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い肥《ふと》ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の綴音《シラブル》「ボー」に強い揚音符《アクセント》をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……
[#地から3字上げ](大正九年十二月、渋柿)
八 ナポリとポンペイ
五月二日
朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁《がんぺき》に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎《かたいなか》に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬《どうけい》の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の笠《かさ》をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。
検疫がすんで桟橋《さんばし》へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。T氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の厄介《やっかい》になることにした。無蓋《むがい》の馬車にぎし詰めに詰め込ま
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