さすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬《ろば》があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって駱駝《らくだ》が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには蘆《あし》のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波《サンドリップル》がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕《ふうしょく》を受けないために土饅頭《どまんじゅう》になっているのもあった。
 夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって砂漠《さばく》のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄《もや》の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星《ポーラリス》が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。
 スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。
[#地から3字上げ](大正九年十一月、渋柿)

     七 ポートセイドからイタリアへ

四月二十九日
 昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼《どろぬま》のような所に紅鶴《フラミンゴー》の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。
 神戸《こうべ》からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。
「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売《たばこう》りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。
 音楽が水の上から聞こえて来る。舷側《げんそく》から見おろすと一|隻《せき》のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂《かい》をあやつっている。その前には麦藁帽《むぎわらぼう》の中年の男と、白地に赤い斑点《はんてん》のはいった更紗《さらさ》を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱《ちんうつ》な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの蝙蝠傘《こうもりがさ》を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作《むぞうさ》に桃色リボンに束ねている。丸く肥《ふと》った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかす[#「そばかす」に傍点]のある頬《ほお》のあたりにはまだらに白粉《おしろい》の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌《あいきょう》を浮かべて媚《こ》びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘《こうもりがさ》をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷《ふなばた》や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側《げんそく》へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。
 七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運
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